日本の明治維新のように朝鮮半島でも近代化の動きがあった。
明治9年(1876年)の日朝修好条規をきっかけに朝鮮では開化・近代化派が勢力を伸ばし、日本の近代化路線に学ぼうと明治14年(1881年)には大規模な視察団が来日しています。李朝は軍の近代化のために、日本から堀本礼造(陸軍工兵少尉)を招いて新式軍隊の編成に着手しています。
明治15年(1882年)7月、壬午事変(じんごじへん)が勃発します。李朝の軍隊の棒給米が一年以上も滞っていたことに役人の不正が発覚し、怒った兵士たちは役人に暴行を加え、捕らえられた兵士たちの指導者は死刑になってしまいます。兵士たちに庶民も加わり全国的な暴動に発展しました。この頃、李朝は閔妃(ミンビ、びんぴ)一族が実権を握っており、兵士たちは王宮に乱入し、閔妃の政敵である興宣大院君奉じます。この事件では日本公使館も破壊され、堀本礼造少尉や学生、巡査などの日本人が殺害されています。
壬午事変は清国が即鎮圧に乗り出し、大院君は天津に拘留され、清国の大軍が駐留することになり、朝鮮は再び閔妃一族が支配し、清国の属国路線に戻ってしまいました。
日本は李朝と済物浦条約(さいもっぽじょうやく)を結び、犯人の処罰と謝罪、賠償50万円を得ます。この賠償金50万円は10万円の支払いが終わったところで、40万円は近代化資金に充てるよう朝鮮政府に寄付し、小型船一隻と山砲二門も送っています。日本は朝鮮の独立を支持していたのです。
李朝のエリートであった金玉均(キム・オッキュン)は明治15年(1882年)2月から7月まで日本に遊学し、福澤諭吉の教えと協力を得ます。福澤は独立自主の意義を説き、人智を開発する途として洋学を教える学校の設立と新聞の発行を勧めました。そして朝鮮で初めての新聞である『漢城旬報』の発行に協力しています。さらに40名の留学生を受け入れ、その半数は陸軍戸山学校に入校させ、他の者は各種の実業学校に入り、朝鮮の軍隊及び産業の近代化の担い手たるべき教育を日本から受けたのです。
金玉均は李朝の閉鎖的社会構造を客観的にみつめて新しい政治体系を目指すようになり、金は「開化党」の中心人物となっていきます。そして今の李朝の荒廃ぶりは李朝が貨幣鋳造権、外交権、国土防衛など国家主権の多くを宗主国清にゆだねて属国の地位に甘んじていることを原因の一つとして考えるようになります。そして甲申事変というクーデターに発展していきました。
このように日本が明治維新を遂げたのと同じように、朝鮮でも文明開化、近代化が芽生えたわけです。これは歴史の大きなパラダイムの変化であり、抗えるものではありません。歴史学者のアーノルド・トインビーは文明と文明の接触過程を「挑戦」と「応戦」と述べて、うまく応戦できた文明は生き残り、うまく応戦できなかった文明は消滅するとしています。日本は応戦できましたが、朝鮮は応戦できず、最終的に活路を日韓合邦に求めたわけです。
私が受けてきた教育は日本には野心があって、朝鮮半島を侵略して植民地にしたというものでした。現在でもメディアはその論調でしょう。しかしながら史実は全く異なっています。
参考文献
朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
オークラ出版「世界に愛された日本」『金玉均と李完用から見た韓国近代史』櫻井誠
文藝春秋「大韓民国の物語」李 榮薫(著)/ 永島 広紀(訳)
転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
WikiPedia「日朝修好条規」「壬午事変」
添付写真
興宣大院君(PD)