3月20日は彼岸の中日です。彼岸は日本独自の文化です。
彼岸の「彼岸」は、「日願(ひがん)」から来ているとも言われ、日本に限らず古来から、太陽や祖霊信仰は原始宗教に発し、仏教語の彼岸は後から結びついたものであると言われています。
「神道」という言葉は、シナから入ってきた漢語ですが、漢語でこの場合の「神」は、鬼神つまり死霊の意味し、「神道」の原義は、墓場への道と言います。我国では、この言葉をまったく違う意味にしてしまったのです。「神の道」「神ながらの道」として、わが国古来の信仰を表わす言葉に使ったのです。
そのことは『日本書紀』に見ることができ、聖徳太子の父・第31代用明天皇の段に、「仏法を信じ、神道を尊ぶ」とあり、「神道を尊ぶ」とは、日本の神々や皇室の先祖を敬うことです。
聖徳太子について書いた太子伝では、補註に、「神道は道の根本、天地と共に起り、以て人の始道を説く。儒道は道の枝葉、生黎と共に起り、以て人の中道を説く。仏道は道の華美、人智熟して後に起り、以て人の終道を説く。強いて之を好み之を悪むは是れ私情なり」と記されている。ここで「神道」というのは、日本古来の道を言います。日本固有の宗教を、神道という漢語で呼んだのです。
漢語の「神道」にある「神」の字を、日本人は「かみ」という大和言葉で読みました。しかし、日本の「かみ」とシナの「神」は違います。日本人は、人間を超えた力を持つ存在、人知で知りえない働きや現象をすべて「かみ」と呼んできたのです。自然の事物や現象、即ち、森羅万象すべての現象、祖先や偉人・英雄の霊などを、一様に「かみ」と名づけたのです。漢字であれば、天・霊・鬼・神・社・稷等をすべて「かみ」と呼び、その総称として「神」という漢字を使用しました。
「神道」は、「かみ」としての「神」に「道」という漢字が結合した言葉ですが、「道」は、シナの文献とともに入ってきた外来の観念ですが、神道という漢語がわが国固有の伝統を表す言葉とされ、聖徳太子伝の補註に見られるように、儒道・仏道に対比して、神道が使われたのです。
「神道」という文字は、「神の道」または「神ながらの道」と言います。
「神ながら」とは、万葉集や祝詞に見える言葉です。
「葦原の瑞穂の国」とは、我国の古称です。その日本の国とは、「神ながら言挙げせぬ国」である。大伴家持は、そうわが国の特徴を表現しています。
そういうわが国に古来伝わる道が、「神ながらの道」であり、「神の道」、神道なのです。
6~7世紀頃のわが国に、シナから儒教・道教・仏教が入ってきたとき、日本人はわが国固有の神道を保ちながら、外来の思想・宗教を取り入れ、我国固有の神道を土台として、その上に、儒教・道教・仏教が融合されました。しかし、固有の精神を失うことなく、外来の文化を摂取して、精神文化を豊かに発展させてきた民族なのです。
神道は、「神の道」「神ながらの道」であり、神代から伝わってきて、神慮のままで、人為を加えぬ日本固有の道です。自然崇拝・祖先崇拝を元にしたものです。
古代のシナにも、自然崇拝・祖先崇拝の宗教がありました。天神地祇への信仰であり、祖先の霊への信仰である。これは、日本風に言えば、シナの神道となるだろう。古代のシナでは、「神ながらの道」を踏んで政治を行った聖王の治世が理想化され、「先王の道」とされた。儒教では「先王の道」の復活を目指して「修己治人の道」が発達しました。これに対して、老子の「無為自然の道」が思索されもしました。
これに対し、わが国では、神話の神々を祖先に持つ皇室が、肇国以来、民族の中心にあって、現代まで脈々と続いています。シナで言えば、三皇五帝が単に神話・伝説上の存在ではなく、彼らの子孫である王家が、古代から一貫して継承され、現代においてなお存在しているようなものです。しかし、易姓革命が繰り返され、三皇五帝の末裔すら存在しません。
しかし、わが国においては、「神ながらの道」が途切れることなく、歴史を貫いてきました。「御神勅」は失われることなく、代々の天皇陛下に継承・実践されてきました。臣民(国民)は仏教や儒教、道教を養分として取り入れて、独自の精神文化を発達させてきました。
このような文化発展が可能となったことには、聖徳太子の功績が大きいです。太子は、シナから流入する思想・宗教の文献を読破し、日本独自の理念を打ち立てられました。それが「和の精神」です。太子が制定し十七条憲法は、「和をもって尊しとなし」と始まり、「和」をわが国の基本理念に定められました。
「和」は、シナの儒教では徳目ではなく、三徳・五常・五倫には挙げられません。『論語』には、「礼の用は和をもって貴しとなし」とありますが、これは礼という徳目のもたらす効果として和をいうものである。すなわち、礼つまり儀礼は社会に和合をもたらすというのが趣旨である。「和して同ぜず」という言葉」もあるが、協調はするが妥協はしないといった意味で、「和」が徳目とされているわけではありません。
「和」は、仏教の徳目とも言えません。仏教には、「和敬」「和合」等の言葉がありますが、そのもとは仏の慈悲です。太子は仏教の興隆に努められはしましたが、我国を仏教国にしようとしたのではありません。皇室に伝わる固有の神道を根本として、外来の思想・宗教を取り入れてわが国の精神文化を豊かにしようとされたのです。
シナから思想・宗教の入ってくる以前より、わが国の社会では調和が大切にされてきました。その中心には、天皇陛下があり、国民全体が一大家族のような共同社会を形成したのです。
古代の日本人は、国名を「わ」と言いました。「わ」は、環濠集落を意味する。「輪」であり、輪になった集団のことです。「わ」と聞いてシナ人が「倭」の字を当てたのでしょう・・・日本人は、その文字を嫌って、「和」の字を当てたものと思われます。太子の「和」は、こうした日本固有の理念を「和」という漢字を借りて表わされたのです。
「和」の国・日本に伝わってきた道が、「神ながらの道」「神の道」であり、神道です。人々は、調和を心がけながら、知らず知らずにこの道を踏み行ってきた。そこに自ずと育成された徳が、日本人の美徳なのです。
日本人は、四季の変化に富む、豊かな自然のなかで、人々が天皇陛下を中心として、一大家族のような社会を構成して生きてきました。そこに自ずと発生・成長したのが、人と人、人と自然が調和して生きる日本精神、即ち「やまと魂・やまとごころ」です。
「やまと魂・やまとごころ」の根底には、自然を愛し、自然を畏れ、また祖先を大切に祀る敬神崇祖の「こころ」がある。その宗教的な表現が神道です。「神の道」「神ながらの道」です。
我国固有の神道は、自然崇拝・祖先崇拝の生き方です。自然の事物や現象を神と感じ、神を敬い、神を畏れる。また祖霊を尊び、大切に祀る。古代の日本人は、清明心つまり「清き明き直き心」を大切にしました。自然神・祖先神には心身を清めて向かい、人には邪心なく接する。罪けがれを忌み嫌い、正直、勤勉、誠実、約束を守る、親切、清潔、礼儀正しさ等の日本人の美徳は、「清き明き直き心」の働きと言えます。
人々が「清き明き直き心」をもってともに生きる社会に実現されるのが、「和」である。聖徳太子が基本理念とした「和」は、人々が「清き明き直き心」を大切にし、「神ながらの道」に沿って生きる社会の理念と言えます。
人々が、人と人、人と自然の調和を心がけて、和をもって日本古来の道を踏み行ってきたところに、徳が育成され、日本人の美徳が豊かに継承されてきました。
戦後、大東亜戦争に敗れたことで、日本古来の伝統、慣習が否定され欧米の価値観を押し付けられました。
その結果が、今日の荒廃した社会なのです。
世界から賞賛された日本人に戻りましょう・・・・
「清き明き直き心」 神ながらの道へ・・