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[転載]特別扱いされた皇族軍人

特別扱いされた皇族軍人


男子皇族は全員軍人となることが原則とされ、実際に戦場で命を
散らした皇族があったことをこれまで述べてきた。だが実際には
皇族を危険な任務から遠ざける傾向があったことも確である。皇族を
弾丸が飛び交う前線に配置することには抵抗があったのだ。
 
大正天皇の第三皇子で昭和天皇の弟宮に当たる高松宮宣仁親王は、
学習院を経て海軍兵学校、海軍大学校に進み、砲術学校普通科学生
課程を終了後、戦艦「比叡」に乗り組んでいた。しかし高松宮は周囲
から常に特別扱いされ、自ら望むことは何もやらせてもらえず、その
悔しい思いを、22歳の昭和2年(1927)8月28日の日記に次のように
記した。

「行くと云つて『では願ひます』とすら云はれたことがない。まして
『殿下に』と呼んでたのまれたことはない。そんなに私は何にを
するにも能力がないのかしら。「する」と云つてさしてもらへたことは
この一月何んにもない。『比叡』の中にすんでる油虫と大差なし。
もう『さしてもらひ度ひ』とは云ふまい。そう云ふのは自惚れなんだ
らう。』

また別紙には次のような戯れ歌が書かれている。
「私は比叡の油虫/立派なお部屋に/納って/たらふく食ったら/
ちょろ々と/ふざけ散らして/毎日を/遊んで暮す有様は/他人が見れば
羨めど/我身となれば徒食の/辛さに苦労の益す許り/早く私も人並みに
/比叡のために働いて/大きな顔して開歩して/愉快な日々を送りたし。」

何もやらせてもらえない自分を「比叡の油虫」と表現するところに、
ユーモアセンスのある高松宮らしさが湊み出ている。ここから若き
高松宮の青春の一ぺージを垣間見ることができる。
昭和12年(1937)夏、高松宮は少佐として軍令部第四部(通信)に勤務
していた。この頃、上海周辺で日本軍と中国軍が本格的な戦闘に突入し
、両軍に多大なる犠牲者を生むに至ったのだが、そのとき高松宮は
自らが中央の安全な場所で勤務をしていることを嫌い、前線に赴く
ことを希望した。高松宮は戦闘の実態を見聞しておくことが絶対
必要であること、そして国民の危険をただ座視するのは皇族として
好ましくないことなどを、中国行きを希望する理由として自らの
日記に記している。

ところが宮内省はこれに反対、木戸幸一宗秩寮(そうちつりょう)
総裁〔当時。宗秩寮は旧宮内省の一部局で、皇族・華族などに関する
事務を司った〕と海軍次官山本五十六中将〔当時〕、そして昭和天皇も
同じくこれに反対し、高松宮は中国行きを断念することになる。

反対の理由は、そのとき兄宮の秩父宮は外遊中で日本を留守にして
おり、また弟宮の三笠宮はまだ若いため、もし昭和天皇に万一のことが
あった場合、高松宮に摂政になってもらわなければ困るということだった


高松宮は昭和12年9月11日の日記に、
「海軍にゐてコノ機会を逃した事だけで、私は今までの私の、何の
ために海軍にイヤくながら在籍してゐるのかと云ふ、唯一の手が
かりを失つた様な悲しさを覚える。益々私の海軍にゐることの有名
無実さを感じられる」と極度の落胆ぶりを記した。

高松宮の憤りはまだ続く。昭和17年(1942)夏、宮はアリューシャン
列島のキスカ島の視察を希望するが、やはり嶋田繁太郎海相と
軍令部次長伊藤整一少将らに反対され、またしても望みは実現しない。
高松宮はこのときも日記に「全く統率上生ける屍なり」
(昭和17年8月30日付)と書き残した。当時多数の男子皇族がいたが、
秩父宮、高松宮、三笠宮の三方については 昭和天皇の弟宮である
ということで、ほかの皇族軍人に比べてより特別に扱われていたと
見える。

また昭和12年9月に伏見宮博義(ひろよし)王(海軍大佐一が第三
駆逐艦隊司令として駆逐艦「島風(しまかぜ)」に乗艦していたところ、
上海方面で負傷したとの報せを受け、高松宮は「結構な出来事なり。
〈中略〉これで皇族も戦死傷者の中に算へられる帖面ヅラ
となり、よろし」(『高松宮日記』昭和12年9月26日付)と記した。



                        竹田恒泰 「皇族たちの真実」より




 


 

転載元: サイタニのブログ


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