2012-03-07
天兵、越南に下る ~ 明号作戦
かつて日本は美しかった誇りある日本、美しい日本へ
遂にやってきた天兵、冬兵団。
日本に学べ!東遊(ドンズー)運動を展開した潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は日本に学ぶベトナム人留学生にこのように教えていました。
ベトナムは長くフランスの植民地でした。潘佩珠はベトナム独立を目指し、明治38年(1905年)から日本で東遊運動を展開した後、タイを根拠地に活動しましたが、フランス官憲に逮捕され、軟禁生活を強いられ、日本軍が北部仏印進駐を果たした約2ヵ月後の昭和15年(1940年)10月29日に「おお、わがベトナムよ」と最期の言葉を残して息を引き取りました。この頃、「ベトナム」という言葉は使用が禁止されていたのです。フランスの植民地であったベトナムは「フランス領インドシナ」と呼ばなければなりませんでした。潘佩珠のベトナム解放の夢は死後5年後に正夢となります。
昭和20年(1945年)1月25日、支那から国境を越えて日本軍第37師団(冬兵団)がベトナムに入りました。ベトナム人は冬兵団の姿に脅威の目を見張りました。ひどい身なりだったのです。帽子がなくて鉢巻した者、軍服はボロボロで風化したように見え、膝や肘の抜けた部分を支那木綿で、雑巾を貼り付けたようにつくろい、階級章もほとんど付けていません。靴も古い支那靴を草鞋履きにして縛り付けるなど、上から下まで満足な服装をした兵は一人もいませんでした。兵士の顔はひげぼうぼうで唇まで陽に焦げたどす黒い顔をし、眼だけがギラギラ光っていました。
冬兵団を目撃した第21師団、岩木栄光氏
「中国大陸を補給もなく横断して仏印国境を通過した光部隊(冬兵団の防諜名)は、乞食同然の格好で、兵隊半分、苦力半分でした。補給も何もなく、中支・南支と戦いながらの行軍してきたのですから当然だったでしょう」
フランス人も「なんだ、これは」「帽子のマークは、ここのジャポネー(日本兵)と同じようだし、ひょっとしたら敗残兵ではないか」「余計なものが入ってきたもんだ。また何か、変わったことでも起こらにゃいいが」と呆れさせ、いい知れぬ恐れを感じさせました。
昭和20年(1945年)に入るとベトナムにも米軍の爆撃があり、戦局は逼迫してきました。日本軍はフランス軍と協同防衛を提案していましたが、フランス軍は「本国政府と相談の上返事したい」とノラリクラリとかわしてきました。日本は仏印処理に迫られ、「明号作戦」を準備します。冬兵団は支那派遣軍からインドシナ駐屯軍の隷下に編入されました。そしてインドシナ駐屯軍は第38軍に改編されました。
2月1日、日本最高戦争指導会議は「情勢の変化に応ずる仏印処理に関する件」を決定。「機宜かつ自主的に武力処理を行う」方針を決定し、仏印総督に対する最終的な「外交要求事項」を定め、これに応じないときは武力処理し、その後、ベトナムの独立を支援し、承認することなどが決まりました。
3月9日、明号作戦発動。冬兵団は鬼神の働きをし、フランス軍を蹴散らしました。第21師団の一個大隊が敗走するフランス軍を追って、ラオスへ向かったところ、3日ほど遅れて出発した冬兵団の一部隊がラオスの中ほどで追い抜いてしまったことがあります。ほとんど不眠不休で握り飯をほおばりながら先へ先へ進む冬兵団の部隊の姿を見た第21師団の兵は「あれは人間じゃない。鬼だぞ」と舌を巻いたといいます。
明号作戦は冬兵団の活躍により日本軍の圧勝。80年に及んだフランスのベトナムによる植民地支配は終わりを告げました。東遊運動から40年、潘佩珠の悲願が達成されました。
参考文献
第三十七師団戦記出版会「夕日は赤しメナム河」藤田豊(著)
明成社「日越ドンズーの華」田中孜(著)
手記「仏印の明号作戦」岩木栄光
添付画像
第37師団歩兵227第一大隊(独立混成70旅団)を歓喜してむかるサイゴン市民
~「夕日は赤しメナム河」より