バルトの楽園。
板東俘虜収容所は「バルトの楽園」という映画があったので有名だと思います。
大正3年(1914年)から大正7年(1918年)の第一次世界大戦で日本は参戦し、ドイツ領の膠州湾、青島及び膠済鉄道全線を占領し、海軍は赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領しました。(※1) ドイツ兵捕虜は4700人余りにのぼり、その多くは日本に移送されました。板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)はそのうちの一つです。鳴門市大麻町(当時、板野郡板東町)にありました。
板東俘虜収容所の所長は松江豊寿大佐です。以下は松江大佐の口癖です。
「ドイツ人も祖国のために戦ったのだから」
松江大佐は捕虜全員を集めたとき以下のように訓示しています。
「諸君は祖国を遠く離れた孤立無援の青島で、最後まで勇敢に戦ったが、利あらず日本軍に降伏した。私は諸君の立場に同情を禁じえない。諸君は自らの名誉を汚すことなく、秩序ある行動をとってもらいたい」
そして松江大佐は驚くような事をし始めます。収容所の正門前に80件もの捕虜たちが経営する店を出したのです。仕立て屋、理髪屋、靴屋、写真館、製本屋、アイスクリームの販売店、家具店などのほか、音楽教室、楽器修理、金属加工や配管工事の店・・・松江大佐は捕虜たちの多くは職業軍人ではなく、手に職をもち、青島や東南アジアで働いていた義勇兵であることを知っており、彼らの知識や技術を活かしたいと考えていたのでした。
捕虜収容所の前の土地7000坪を借り上げて運動場を作り、捕虜たちはサッカー場やテニスコート、バレーコート体操場、ホッケー場などを造成します。空き地には鶏舎や菜園が作られ、ジャガイモやトマト、キャベツ、玉ねぎなどが栽培されます。収穫物は収容所が買い上げ、捕虜たちの食事として給されました。
捕虜たちは吉野川や櫛木海岸で水遊びや海水浴を楽しみます。これを知った陸軍省は激怒。しかし松江大佐は「あれは足を洗わせていたもので、彼らはつい泳いでしまっただけであります」と言ってはぐらかします。それで櫛木海岸で行われえる水泳大会を「足洗い大会」と称して捕虜と地元民がお祭りを行うようになります。
捕虜たちの外出は引受人さえいれば比較的自由で、地元民はドイツの農業技術や洋酒製造、標本作成、植物採集、気象観測、設計建築、石鹸の作り方、染色などを学び、ドイツ兵捕虜は日本の養蚕や稲作、藍作や焼き物などを学びます。
地元の青年たちが西洋音楽を習いたいという願いを聞いた松江大佐はエンゲル・オーケストラのリーダー、パウル・エンゲルを紹介し、音楽教室を開きます。日本で初めてベートーベン交響曲第九が演奏されたのはこの板東俘虜収容所です。
やがて停戦協定が結ばれ捕虜は日本を去ることになります。松江大佐の命令遵守に感謝するという言葉に対し、通訳や日本語講師を務めたクルト・マイスナーはこう答えました。
「あなたが示された寛容と博愛と仁慈の精神を私たちは決して忘れません。そしてもし私たちより更に不幸な人々に会えば、あなたに示された精神で挑むことでしょう。『四方の海みな兄弟なり』という言葉を、私たちはあなたとともに思い出すでしょう」
「四方の海」・・・は明治天皇御製の歌ではありませんか。
それから50年のときを経た昭和47年(1972年)、多くの元捕虜たちから寄付や資料の提供を受けて「鳴門市ドイツ館」が完成しました。この板東俘虜収容所についてはドイツ人捕虜のお墓を13年守り続けた日本人主婦の話やフランクフルトで「バンドーを偲ぶ会」が行われたいたなど数々のエピソードがあります。
(※1)日本はこのほか地中海に水雷戦隊を派遣している。
参考文献
竹書房「世界が愛した日本」四条たか子(著)
小学館「SAPIO」2009.7.8『世界から感謝される”人情の日本史”』四条たか子
転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
鳴門市ドイツ館 http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/germanhouse/
WikiPedia「バルトの楽園」「松江豊寿」
添付写真
板東俘虜収容所跡(PD)