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[転載]「岸壁の母」日本民族の悲劇


菊池章子 岸壁の母(台詞入り) 1978



岸壁の母(がんぺきのはは)は、大東亜戦争後ソ連による抑留から解放され、引揚船で舞鶴港に帰ってくる息子の帰りを待つ母親を昭和29年菊池章子が歌ったものです。
ソ連からの引揚船が着くたびにいつでも見られた光景であったが、時間の経過とともに、毎回、同じ顔ぶれの人々が桟橋の脇に立つ姿が見受けられるようになり、これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられ、たちまち有名になりました。
「岸壁の母」のモデルとなったのは、端野いせさんでした。
息子の新二さんは、立教大学を中退し、軍人を志して昭和19年に、満洲国に渡り、そこで関東軍の石頭(せきとう)予備士官学校の生徒なります。
関東軍というのは、日本の関東地方とはなんの関係もない名称で、日本が支那から租借した遼東半島のあたりが昔、支那で関東州と呼ばれていたことから、この地方の守備隊として関東軍の名前がついたのです。

牡丹江省にあった関東軍石頭予備士官学校は、生徒数3600名、教官は半数が尉官か見習い士官という陸軍の予備士官学校でした。

昭和20年8月9日未明、突然、一方的に日ソ不可侵条約を破ったソ連軍が、満洲地方になだれ込みます。
以下の動画は、熊本出身で、ソ連と満州との国境近くにあった「関東軍石頭予備士官学校」の士官候補生だった荒木さんは、終戦時21歳。大東亜戦争後、シベリアで強制的に抑留された旧日本軍将兵、大阪府河内長野市の荒木正則さん(87)。
強制収容所に送られ、時に氷点下60度以下という酷寒のなか、第二シベリア鉄道の工事に強制的に従事させられた。

「民族の悲劇といえる抑留の史実さえ、忘れ去られようとしている現状を憂い、多くの若い世代にぜひ真実を伝えたい」と作られたものです。関東軍石頭予備士官学校生徒3600名が如何に戦い、武装解除した我々の先人に対し、ソ連が非道な行いをしたかお解りいただけると思います。




12月11日 シベリア強制抑留・日本民族奴隷の悲劇 


3600名の生徒は2組に分けられ、歩兵砲、機関銃隊1600名は、荒木連隊長の指揮下に、残り1600名は学校長小松大佐のもとに、東京(とんきん)城に布陣しました。

対する敵のソ連軍は、投下兵力158万人の大部隊でした。兵力は2つに分けられ、第一極東戦線は、メレンコフ元帥が直接率いました。
第一極東戦線だけで、歩兵4師団、十二個狙撃師団、戦車二個師団、十五個国境守備隊、大隊砲3500門、ロケット砲430門、戦車約1000両、他に空挺部隊などを持つ、ソ連最強軍団でした。
対する当時の関東軍は、必要な武器弾薬兵器を南方戦線、本土決戦にことごとく送っていて、極めて悪い状態でした。
互角の装備では、日露戦争や、それ以降の国境付近の衝突事件等では、ソ連は日本に敗れています。だから日本軍が怖かった。状況をはっきりと掴んだ上で、ソ連軍は158万の大兵力、新鋭武器を投下してきています。
当時の満洲に残った関東軍に残されていたのは、不十分な武器、弾薬以外にインフラ整備に使うダイナマイトくらいしかなかったのです。

東京(とんきん)城方面に向けられたソ連軍は、航空部隊や戦車部隊を含めて約50万の大軍。歩兵銃の弾もろくにない、重機関銃の弾薬さえも欠乏している石頭予備士官学校の生徒たち3600名が迎え撃ったのです。
このときの戦闘の模様が、当時まさにその石頭予備士官学校の生徒であった高崎弥生氏の「実録 遥かなる回想」に記載されています。

以下、引用します。

支給された爆薬は、ランドセルくらいの大きさで、中にはダイナマイトがびっしり詰まり、30cmくらいの導火線がついていた。
いわゆる「急造爆雷」である。

その先にマッチ棒を3本、木綿糸でしっかりとくくりつけた。

敵戦車が接近したら、マッチ棒をすって点火させてから、爆薬を抱えたまま全力疾走で突っ込む作戦である。

点火後、3~4秒で爆発する。

これを「対戦車肉迫攻撃」といい、略して「肉攻」と呼んだ。

敵は明朝になれば必ず攻めてくる。

来ればどうなるかは、もう誰もがわかっていることだ。
あと数十時間の生命である。

蛸壺のなかに寝転んで暮れゆく空を見上げていると、なぜか故郷のこと、母のこと、兄弟のこと、幼いころのこと等が次々思い出されてくる。


8月13日、代馬溝陣地を突破したソ連重戦車が、ついに磨刀石にその姿を現した。

地面を揺るがせながら、道路を一列になってゆっくりと我が陣地内に侵入してきた。

この道路の両側には、草や小枝で擬装した蛸壺の中に「急造爆雷」を抱いた候補生が潜んでいた。


戦車が近づくと、次々と「先にゆくぞ」と叫んで、敵戦車に突入して行った。


戦車には自動小銃を構えた歩兵が随伴していて、蛸壺を見つけたら、中に潜む肉攻手を狙い撃ちするので、飛び込むまでにやられる者もあれば、同時に爆薬が炸裂し、敵もろとも吹き飛ぶ壮絶凄惨な戦闘が始まった。


味方の重機関銃も猛然と射撃を開始し、小型迫撃砲も一斉に発射された。


この重機関銃陣地をつぶそうと、敵の戦車砲、機関銃が集中砲火を浴びせてくる。

後方の高台に布陣をしている友軍砲兵が援護射撃を開始し、榴散弾(りゅうさんだん、弾の中に多数の散弾がつめてあり、炸裂して人馬を殺傷する)を浴びせかける。

敵は炎上する戦車を道路下に突き落として、次々と進撃してくる。


蛸壺の中では、爆薬を抱えた数百名の候補生が息を殺して潜んでいる。


やがて、肉攻壕の土が、ボコボコと戦車の地響きで崩れ始める。

耳を聾するキャタピラの音、重油の焼け焦げる匂いが胸をつく。

敵の随伴歩兵がトラックから降りて、自動小銃を構えて、戦車の周りに見え隠れして続々と向かってくる。

ソ連兵の自動小銃が肉攻壕を狙えば、肉攻手は、即座に自爆だ。

重機関銃隊が、銃の偽装の小枝をそっと払った。

たちまり味方の重機関銃がうなった。榴弾筒部隊も発射した。
二十数名のソ連兵がぶっ倒れた。

ひるんだ敵の歩兵が戦車から退いて行った。

肉攻手が爆弾を抱えて踊り出た。

ひとりの肉攻候補生が、蛸壺を飛び出すと、爆雷を道路に置いて伏せた。

ソ連戦車は急ブレーキをかけて爆雷の3M手前で停まった。
候補生は、ほふく前進して爆雷を戦車の下に押し入れようとした。

戦車の直前で、爆雷は轟音を発し、半身は高さ20Mまでも白煙とともに砕きあがり、鮮血を撒き散らしながらぐるぐると回転して、またもとの位置に落下した。


東満洲の軍都、牡丹江の防衛最前線として磨刀石に布陣した石頭予備士官学校候補生の、ソ連戦車体当たり戦法は、こうして開始された。



またひとり、小さな体で四角い爆薬の包みをかかえて飛び出していく。

一瞬、ものすごい閃光がひらめき、白焔が戦車をつつむ。
そして、またひとり・・・

突然、戦車の砲頭の下から吐き出す紅蓮の火炎に巻き込まれ、すさまじい轟音とともに自爆した。


肉攻陣地があることを察知したのか、敵戦車はしばらく全身を躊躇(ちゅうちょ)したが、こんどは火炎放射機で周囲の肉攻壕を焼き払いながら、その上に乗っかってグルグルと回転しはじめ、敵の歩兵も散開して肉攻壕に、自動小銃をを撃ち込んで進んでくる。


味方の重機関銃が銃身も裂けんばかりに撃った。

的戦車の砲身や機銃が、一斉に味方の重機関銃小隊に集中した。
第一分隊の銃手、即死。

重戦車の巨砲が向きを変え、味方の陣地に向かって水平射撃の位置に砲身を構えた。


五体を揺るがすような炸裂が山野をゆるがした。

体は壕に叩きつけられ、舞い上がった土砂で半分ほど埋まった。

陣地における指揮連絡はまったく寸断され、日が暮れて、生き残った者同士が、負傷者をかばいながら引き揚げてくるが、集合場所さえ定まらない乱戦となった。


川上哲次候補生は、手記にてこのように報告している。


「道路上に、3~40両の敵戦車が轟音をあげてあらわれた。まるで動く岩のようであった。またひとりの肉攻手が、爆薬をかかえておどりでた。戦車はとまらない。


肉攻手の姿が一瞬見えなくなった。

次の瞬間、肉攻手は、戦車のキャタピラに腕を挟まれ、逆さ宙づりになった。

おもわず息をのむ。


そのとき爆薬が炸裂した。

ピカッ、グワーン!

閃光が走り、ものすごい煙に包まれ、敵戦車は立ち往生した。

恐ろしくなったのであろう。ソ連兵は戦車から飛び出し、逃げ出した。

勇敢な肉攻手が2~3名、壕から飛び出し、敵の戦車に躍りあがり、掩蓋(えんがい)から中にはいる。


戦車の砲塔が、ぐるりと後ろを向いた。


ズドーン!


すぐそばまできていた後続の戦車めがけて、ぶっ放したのである。


「やった!」と壕の中では歓声があがった。


続いて戦車めがけて一発! そしてまた一発!

分捕り戦車は猛然と火を吐いた。

痛快極まるとはこのことか。

たちまち5~6両の敵戦車を粉砕してしまったのである。

後続の敵戦車群は大混乱となり、後退した。


そのときの勇士は、鈴木秀美候補生、一之瀬候補生、和泉伍長の3名である。

鈴木候補生は、敵戦車の構造をよく知らず発砲の折、砲座で顔面を強打し、大腿部も負傷していた。
彼は、戦車から外に出て、中隊長や戦友に向かい、
「自分は負傷してこれ以上戦えない。速射砲の分隊長として、砲と運命を共にする責任がありながら、砲は射撃不能となった。自分はここで砲とともに自爆する。天皇陛下万歳!」
そう叫ぶと、10キロの爆弾を抱きしめ、壮絶な爆死を遂げた。

猪俣大隊長は、戦車砲撃の直撃を受け、一片の肉も留めぬ壮烈な戦死を遂げられた。


代わって大隊の指揮は、梅津眞吾中尉がとられ、敵戦車に果敢な奇襲攻撃をかけられたが、ついに陣地は敵戦車に蹂躙され、死傷者続出の事態となった。


梅津中尉は、もはや組織的な戦闘は不能と判断し、生存者を集めて、後方の山中に入り、脱出した。


8月15日、掖河(えきか)の本体にたどり着いたときは、磨刀石出撃時に750名いた猪俣大隊の候補生は、わずかに105名になっていた。







上記の動画にもこの「磨刀石の戦い」の様子は紹介されています。

この戦いで、「岸壁の母」で歌われた端野いせさんの息子、端野新二候補生も、消息を絶ちました。
候補生のみなさんは、十分な装備も武器もなく、戦えるだけの武器も弾薬もなく、あるのは、少量の武器弾薬とダイナマイトだけだったのです。しかも圧倒的兵力差。
候補生のみなさんは自分たちがここで一日でも、一時間でも、一分でも多く敵を釘づけし時間を稼ごうとされたのです。
ソ連の南下により、
続々と避難している在留邦人たちが、すこしでも早く、すこしでも遠くまで安全に逃げ伸び、日本に帰還して欲しいの一念だったのです。
候補生のみなさんは、立派に戦いました。命令があったから散華されたのではありません。崇高な使命、同胞を思うこころ、祖国のために、戦ったのです。

先日、拙稿「筆者が涙した演説」の中で、三木けえ先生が熱き思いを込められ、訴えられたのはこの精神です。
候補生のみなさんは、今でいう成人式を迎えたばかりの世代です。
今の日本を見られたら何と仰せでありましょうや?・・・

端野いせさんは、昭和51年9月以降は高齢と病のため、通院しながらも和裁を続け生計をたてられ、新二さんの生存を信じながらも昭和56年7月1日午前3時55分に享年81歳で亡くなられました。「新二が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりたい」と入院中も話され、一瞬たりとも新二さんのことを忘れたことがなかったことを、病院を見舞った「岸壁の母」を歌った二葉百合子さんが語っています。

石頭予備士官学校候補生のみなさんの気高い魂を、彼らの勇気を、私たち日本人が語り継がないで、いったい誰が語り継ぐのでしょうか。そして、武装解除した多くの日本軍将兵を厳寒の地に抑留し、日本人女子に対する強姦、殺戮、動物以下の扱いをしたソ連。ロシアに再び国名を変えても、卑劣さは何ら変わっていないロシアのお国柄も忘れてはならないでしょう。

いつか日本国民のすべてが靖国の英霊に感謝の誠をささげ、国を護るという気概を持ち「後に続く」精神を継承することを願ってやまないのです。

























転載元: 美しい国


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