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[転載]皇族竹田宮三度目の御召 (国内の決起部隊に終戦の聖旨伝達へ)

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竹田宮三度目の御召
 
終戦の聖旨伝達はこれで終わったわけではなかった。
既に述べた八・一五事件でも明らかなように、軍部の若手将校の中には
日本のポツダム宣言受諾に反発する者もあり、連合国の進駐に当たり
最後の抵抗を試みる動きがあった。

そして現に敵の上陸に備えてあからさまに攻撃の準備をしている部隊もあった
。陸海合わせて789万人〔終戦時の残存兵員数〕の巨大な日本軍が一斉に
武装解除することは実際には極めて困難なことであったのだ。

竹田宮が帰国してから2日後の8月22日、昭和天皇から竹田宮に三度目の
御召があった。昭和天皇は連合軍の本土進駐のときに不心得があっては
いけないと大変御心配になり、我が国最南端を守っていた福岡の陸軍航空部隊
(第六航空軍)に行って、決して不心得なことをしないようによくよく自分の気持を
伝えること、また宇品の陸軍船舶司令部が敵の上陸に備えて水上特攻を準備
していたので、これにも自重するよう聖旨の伝達を命ぜられた。

竹田宮は直ぐに福岡、そして宇品に行って聖旨を伝達し、それぞれ矛を収め
させた。また23日には高松宮が海軍航空部隊へ出かけて行き、同じように 
天皇の思召を伝達した。そして25日に高松宮、久邇宮、竹田宮の三名は
御所を訪れ復命した。

8月26日は、連合国進駐軍の先遣隊が神奈川の厚木飛行場に降り立つ日だった
。その日までには日本の飛行機は全て武装解除し、飛べないようにしておく
必要がある。しかし厚木飛行場の相模原航空隊は命令を無視し、進駐軍を
撃退すべく演習を続けていた。海軍は強い態度でこれを抑えようとするが、
彼らは決死の覚悟であり、容易に言うことをきかない。

そこで時の首相東久邇宮稔彦王は 昭和天皇に高松宮の御差遺を願い出た。
高松宮が直接説得することで、24日の夕方、飛行場を占拠していた強硬派の
地上勤務部隊が海軍治安部隊に厚木飛行場を明け渡した。翌25日には
米軍機が東京上空を盛んに飛んだため、もし厚木飛行場の武装解除が半日
遅れていたら、日米の交戦状態に至った可能性もあり、非常に危険な状態
だった。

天候の都合により、進駐軍先遣隊の到着は28日に延期され、マッカーサー元帥
の到着も30日に順延された。マッカーサー元帥は日本に進駐軍を送り込むに
当たり、相当の混乱があることを予測していた。だが、8月30日、平穏のまま、
マッカーサーはサングラスを掛けてパイプを咥(くわ)えながら厚木飛行場に
降り立った。

敵と向かい合っている部隊の一部は、8月15日に玉音放送で終戦が伝えられ
ているにもかかわらず、また陸軍省や海軍省から武装解除の指令が出て
いるにもかかわらず、いまだ武装解除することなく、上陸する敵を迎え撃つ準備を
進めていた。だが皇族が出向いて直接天皇の御心を伝えることで、彼らは初めて
ポツダム宮言受諾、敗戦、そして武装解除を受け入れたのだ。

この任務を遂行することができたのは皇族しかいなかった。昭和天皇は27日、
天皇の特使を果たした高松宮、三笠宮、朝香宮、竹田宮、閑院宮を宮城の
表拝謁間に御招きになり、御慰労をなさった〔朝香宮は体調不良につき欠席〕。
この特使の任務は、混乱する最前線を転々とする極めて危険な任務であった
ため、ここに集まった皇族たちは生きて帰ったことの喜びを分かち合ったに
違いない。
 
 
 
                    竹田恒泰著  「皇族たちの真実」より




転載元: サイタニのブログ


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