2012-03-01
日本に学べ、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の東遊運動
日露戦争後、アジアの国々から多くの人が日本に学びにきた。ベトナムも例外ではなかった。
明治38年(1905年)6月のある日、小田原の海岸に見慣れない一隻の船が到着しました。船から風采ただならぬ人物が出てきました。集まってきた漁師たちは声をかけても通じません。筆談もダメでした。そこでその村で一番偉いのは医師の浅羽佐喜太郎先生だから、先生のところへ行けばなんとかなるだろう、と話がまとまりました。(※1)
この船から降りてきたきたのはベトナム人の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)でした。潘佩珠は教師の家の生まれで、小さい頃から国家試験に合格するなど天才少年と言われ、漢学者のところに弟子入りしますが、科挙という官吏になるための勉強だけであり、ものたりませんでした。当時、ベトナムはフランスの植民地下にあり、やがて反仏運動に身を投じるようになりました、。
1901年、潘佩珠は抗仏維新会革命党を結成。1903年、フエの王城に居住していた王族のクォン・デ侯(彊柢 畿外侯)に拝謁し、フランスを撃ち阮王朝を再興する計画を上奏しました。クォン・デに侯を盟主とし、活動を続けました。
日露戦争が始まると潘佩珠は「日本が勝つ」と予言しましたが、ロシアのバルチック艦隊がベトナムのカムラン港に寄航すると、「こんな凄い艦隊を日本が倒せるわけがない」と潘佩珠の意見を疑問視します。ところが日本海海戦で日本連合艦隊が圧勝。潘佩珠への信頼と評価が高まっていきました。
潘佩珠
「この時に当たって東風一陣、人をしてきわめて爽快のおもいをあらしめた一事件が起こりました。それは他でもない、旅順、遼東の砲声がたちまち海波を逐うて、私達の耳にも響いて来たことでありました。日露戦役は実に私達の頭脳に、一新世界を開かしめたものということが出来ます。(中略) 前に遼東、旅順の砲声がなかったならば、わが国民はついにまた大フランス国以外如何なる世界があるかを知らなかったのであります」
潘佩珠は日本に上陸すると浅羽佐喜太郎の支援を受け浅羽邸を拠点に活動しました。亡命して日本にいた支那の革命家、梁啓超(りょう けいちょう)に会い、日本より武器を輸入したい話をすると、梁啓超は「日本とフランスが戦争でもしない限り武器支援は疑問」と答え「大切なのはベトナムに民衆指導者を育成してゆくこと」と主張しました。そして大隈重信と犬養毅に会うことを勧めます。
大隈重信はインドやポーランドが自力で独立することを目指し、外国での研究や勉学に励んでいることを例に出し、同志たちを日本で学ばせてはどうか、と提案します。潘佩珠は感激し、自分が日本に来たのは自らの安泰ではなく、祖国ベトナムをフランス支配から救うために命がけで来たことを説明しました。
潘佩珠はベトナムの窮状を訴える「ベトナム亡国史」を書き、一旦ベトナムへ戻ります。そして3人の学生を伴い日本に再入国し、さらに6人の学生を呼び寄せました。そして犬養毅の世話で東京振武学校と東京同文書院に入校させました。そこで若い人たちは軍事訓練も含めた高いレベルの教育を受けました。クォン・デ侯も来日し、東京振武学校に学びました。そして次々とベトナム人留学生が日本に訪れ日本で学んでいきました。東遊(ドンズー)運動です。ドンズーは「日本に学べ」という意味です。日本に学んだ学生は200名を超えたと言われています。
潘佩珠はこの頃のことを次のように回想しています。
「1906年から1908年の秋までは、私の一生の中で、最も華やかな幸福な時代で、成すこと成らざるはなく、今から思えば私の人生のうち最も得意な時代であった」
しかし、フランスは見逃さず、明治42年(1909年)、日仏友好条約に基づき日本政府にベトナム人留学生を退去させるよう圧力をかけて、日本政府はのまざるを得ませんでした。ベトナムの東京義塾も閉鎖を命じられ、責任者は逮捕されました。
※1 神戸上陸説もある。
参考文献
明成社「日越ドンズーの華」田中孜(著)
中公新書「物語 ヴェトナムの歴史」小倉貞男(著)
ウェッジ「特務機関長 許斐氏利」牧久(著)
ワック出版「歴史通」2010.1『アメリカはなぜ日露講和に乗り出したのか』高山正之
添付画像
左がクォン・デ侯、右はファン・ボイ・チャウ(PD)