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明治大帝直筆のハワイのカラカワ王への手紙
明治14年3月のことです。
ハワイ王国のカラカワ王は世界一周旅行の途中に日本の横浜港にやって来ました。この時、日本の海軍軍楽隊はハワイの国歌「ハワイの国民」を演奏して出迎えました。カラカワ王は異国の地で王自身が作詞した国歌を聴かされるという、思いがけない日本のおもてなしに感じ入って、涙を流されました。
カラカワ王は明治天皇との会見を願い出ました。特別列車で皇居に向かう途中、港も鉄道も白人ではなく日本人が運用しているのを見て感激しました。なぜならハワイでは港も鉄道も白人が独占していたからでした。
カラカワ王は日本の心づくしと自立独立している日本を見て「日本と同盟を結んで白人支配から独立したい」と思いました。
明治天皇と会見したカラカワ王は、日本の伝統文化と近年の国家的隆盛を賞賛した後、ハワイ王国の内憂外患の窮状を述べ、日本に対してハワイの人口減少を日本人移民の実現したいこと、王位を継がせる姪のカイウラニ王女と日本皇族の山階宮定麿親王との婚約を申し入れました。明治天皇もこの申し出には驚かれ、即答せずに後日返答する旨を伝えました。
日本の実力はまだまだ明治維新後の間もない時期であり、とても米国と対抗する力はないため、明治天皇はカラカワ王に特使を派遣して婚姻の議は「日本の皇室にはそのような前例がないこと」「米国の勢力圏に立ち入るのを好ましくないと判断」したことを理由に辞退されました。
しかし移民については明治18年に実現しました。ホノルルに到着した日本移民のために歓迎会が催され、カラカワ王自身も参加し、日本酒を振る舞い、ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会でおもてなしをしたのです。
これに対しハワイの米国人たちはカラカワ王の動きを封じるために新憲法を起草し、カラカワ王に銃剣を突き付けて承認の署名をさせました。ここには王の政治的行為は全て議会の承認を必要とし、多くのハワイやアジア人を選挙から排除するものでした。銃剣でカラカワ王に署名させたこの憲法は「銃剣憲法」と呼ばれました。
明治24年、カラカワ王が病死すると、実妹のリリウオカラニ女王が即位されました。女王は選挙権を貧しい島民にも与える憲法改正を発表し、イオラニ宮殿前では数千人のハワイ人が集まって女王支持のデモを行いました。しかし、米国側はこれを機に一気に王制打倒に動き出しました。
米国公使スティーブンスは「血に飢えた淫乱女王が恐怖の専制王権を復活させようとしている」というアメリカお得意のデマを訴え、「米国人市民の生命と財産を守るために」といういつものきれいごとを言ってホノルル港に停泊中の米軍艦「ボストン」の海兵隊を上陸させて女王を退位させました。ここにハワイ王国は消滅し、ハワイ共和国が樹立され、米国は頃あいを見てハワイを併合しようとします。
しかし、ここで思わぬことが起きます。アジアの小国と思っていた日本がハワイに軍艦を差し向けてきたのです。巡洋艦「浪速」、コルベット級「金剛」がホノルル港に入り、戦艦「ボストン」をはさむように投錨しました。
「浪速」の艦長は東郷平八郎です。後に日本海海戦を指揮して世界に勇名を馳せた名提督であります。東郷平八郎は、「武力でハワイ王制を倒す暴挙が進行している。我々は危険にさらされた無辜の市民の安全と保護に当たる」と宣言しました。
「浪速」は3ヶ月間ハワイに留まった後、いったん帰国、一年後に再び姿を現しました。この時、ハワイ共和国の大統領から「建国一周年」を祝う礼砲を要請されましたが、東郷艦長は「礼砲する理由がない」と拒絶しました。するとホノルル軍港にいた各国軍艦も東郷にならい礼砲を拒否しました。世界の新聞は「ハワイ王朝の喪に服するような静寂の一日に終わった」と伝えました。
その後、ハワイでは「日本の軍艦が味方してくれた」という話が語り継がれ、子供に「トーゴー」と名づけたり、ある地域では「ナニワ(浪速)」が「ありがとう」の意味で使われました。
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