皇居勤労奉仕発端の物語
この物語は昭和二十年、終戦の年にさかのぽる。戦敗れて人みな茫然自失
言語や風俗の全くちがう占領軍将兵の威圧下にあって、国民全体として行動
の積極性を頗る欠いておった当時の有様を読者各位は一応おふくみの上で、
この物語を読んでいただきたい。
当時、皇居周辺の状況は、どんなであったか。皇居の御門という御門には、
いずこも、ここも、占領軍の歩哨が立っている。これは好奇心にかられた
無遠慮の外国兵の入門を阻止するための、占領軍総司令部の好意ある
意図もおりこまれた処置ではあったろうけれども、事情を知らぬ日本人の
眼には、甚だ以て不愉快千万、「日本人近かよるべからず」と無言のうちに
威圧を加える態度のようにうつったことも無理からぬことであった。
二重橋前の十万坪の広場は、管理の統制を欠いだため、六十余ケ所の
照明灯は一つも残らず破壊され、道路といわず芝生といわず、到るところ
踏み荒らされて、昔のような、すがすがしい清らかなおもかげは、どこにもない。
あまつさえ占領軍観兵式用の大スタンドが、二重橋の真正面にニケ所設けられ、
時折は兵士どもが分列式などをやっている。
お濠と森林とに囲まれた皇居は、外観こそは一見、昔とかわらぬようである
けれども、一歩、皇居内に踏み入れば、木造の建造物は殆んど焼失し、さしも
端正雄大であった宮殿の跡も、礎石、玉石、煉瓦、到るところに散乱し、まことに
、いたましい有様であった。ところが、十二月に入って間もないときであったが、
皇居の坂下門の門外に六十人ばかりの青年の一群が到着、どこかの駅から
下車したまま、まっすぐに来たのであろう、手に手に荷物を携帯している。
守門の皇宮警察官を通じて宮内省への申入れは、私たちは、宮城県栗原郡
の各村のものでありますが、二重橋の前の広場に雑草が生い茂って、
たいへん荒れている、ということを聞きましたので、草刈りやお掃除のお
手伝いのために上京してきました。東京には食糧や燃料が乏しいという
ことも聞いていますので、私たちに必要な数日間分は、ちゃんと用意して
持ってきていますから、東京の人たちに迷惑をかけるようなことは致しません、
どうかお手伝いをさせて下さい。
とのことであった。(昭和二十四年まで二重橋前の広場は宮内省の所管であった)
このことは、すぐ侍従次長の私の室へ大臣官房の筧総務課長から電話で知ら
このことは、すぐ侍従次長の私の室へ大臣官房の筧総務課長から電話で知ら
せてきた。私は思った。今どき東京の人は、きょう自分たち一家がたぺるお米が
あるか、ないかが、最大の関心事であるというのに、百里も遠くの、仙台の
もっと北の地方から、何十人という若い人たちが、二重橋前の広場の
お掃除に上京してくるとは、何とたのもしいことだろう。ぜひその人たちの
顔を見たいという気持ちになったので、筧君と一緒に二人で坂下門外に出て
一同に面会してみると、六十人の人たちは、みな二、三十歳の青年で、
うち数名は年も若いモンペ姿の娘さんたちであったが、食料、燃料は
勿論のこと、みな一挺ずつ草刈鎌を携えている。今しがた、外国兵の歩哨の
前を通って、坂下門のところまで来たのであるけれども、別段怖れた様子もなく、
それかといって別に昂然たるところもないが、語る言葉は一語また一語、進む
につれて真剣味を帯びてくる。
われわれの郷里の出身に、長谷川峻という人がいる。緒方国務大臣の秘書官
をしていた人だから調べてもらえば判る。この人が先日郷里に帰ってきたとき、
皇居の前の広場がたいへん荒廃していることを歎いて話してくれた。そこで、
われわれは集って相談をした。それは、まことに相すまぬことだ。みんなで
東京へ行って、草刈りや、お掃.除のお手伝をして上げようではないか。
草刈りは毎日野良でしているのだから、そんなことは何んでもない。だが待てよ、
今どき天子様のために何か働いたら、マッカーサがわれわれを検挙するかも
知れない。それで万一検挙されるようなことがあったときの用意として、
第二隊は郷里に待機させて、第一隊六十人だけ上京してきた。県庁の
知事さんにも挨拶して上京すべきであったが、これも後で、何かの迷惑が
かかっては悪いと思ってだまってこっそり郷里をはなれてきた。娘っ子の
うちには、両親兄弟と永い別れの水盃をかわしてきたものもいる。
と上京の動機や万一の覚悟について、縷々説明するのであった。きいて
と上京の動機や万一の覚悟について、縷々説明するのであった。きいて
いるうちに、私たちは粛然襟を正ださざるを得なかった。厚く一同の厚意を
謝するとともに、遠路はるばる上京されたのだから、二重橋前もさることながら、
皇居の内は人手不足のため、宮殿の焼跡には、いまだに瓦やコンクリートの
破片が到るところに山積している。どうか、皇居の内にきて、それを片付けては
下さらぬか、と提案したところ、この予期しない言葉に、一同の喜びはたいへん
なものであった。万一を覚悟した検挙どころか、全く予期もしない
皇居内の作業をたのまれたものだから、一同の喜びはたいへんなもので、
皇居内の作業をたのまれたものだから、一同の喜びはたいへんなもので、
その活動ぷりたるや、連日、実にすさまじいものがあった。
宮殿の焼跡は上下二段の段地で、なかなか広く、上段が奥宮殿、下段が
表宮殿の跡である。六十人の青年たちは、ここを作業場として三日問猛烈に
働いてくれた。皇居の附近には泊るところもないので、宿舎は小金井附近で
あったと思うが、皇居から二〇キロもはなれているのに、当時、交通機関も
充分に復旧しない混雑の中を、毎日そこから通ってきて、朝からタ刻まで、
手弁当で働いてくれたのである。
三日の後には、何万個という瓦や石の破片は宮殿跡の上段と下段地との
境目にある石垣のところに、実に美事に積み上げられてしまった。東北の
田舎から遥々上京してきた沢山の青年男女が、皇居内の清掃を手伝つて
くれるということは、既に両陛下のお耳にも達していたが、連日の作業が、
いよいよ、今日から始まるという十二月八日の朝、陛下から私に、今日
から仕事が始まるなら、その前に一同に会いたい、との御希望があった。
私も、心ひそかに、それを期待していたので、大喜びで、早速使を出して、
現場にいる六十人の人たちに、お昼前に、天皇陛下が、作業現場に
おいではなるから、そのつもりでいてもらいたい、ということを通知して
おいた。
陛下が作業現場におでましになるとき、お供をしたのは僅か数人であつたが、
私は御座所から現場まで数百歩の道すがら、焼土の上に歩を進められる
陛下のお心のうちを、あれこれと、お後にお供しながら考えた。
続く
元侍従次長 木下道雄 著 「皇室と国民」より