「唐本御影」
我国の歴史には、立派な人物、優れた指導者が、数多く現れています。中でも聖徳太子は、日本の国柄を明確にし、政治や外交や文化のあるべき姿を打ち立て、今日に至るまで大きな影響を与えています。
現在の若い世代には知られていませんが、筆者が子供の頃の一万円紙幣の肖像は聖徳太子でした。皇紀2590年より、紙幣(日本銀行券)の絵柄として百円紙幣に初めて登場して以来、千円紙幣、五千円紙幣、一万円紙幣と登場し、累計7回と最も多く使用されました。
また、長きに渡って使用されたため、「お札の顔」として日本国民に広く認識されるようになり、特に高度成長期に当たる皇紀2618年から皇紀2644年に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用されました。
日本の経済が世界に名乗りを挙げた時代でもありました。
教育勅語世代が社会の第一線から退き、お札から聖徳太子も消え、このころより、日本の政治・経済が衰退期に入ったといっても過言ではありません。
現在の若い世代には知られていませんが、筆者が子供の頃の一万円紙幣の肖像は聖徳太子でした。皇紀2590年より、紙幣(日本銀行券)の絵柄として百円紙幣に初めて登場して以来、千円紙幣、五千円紙幣、一万円紙幣と登場し、累計7回と最も多く使用されました。
また、長きに渡って使用されたため、「お札の顔」として日本国民に広く認識されるようになり、特に高度成長期に当たる皇紀2618年から皇紀2644年に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用されました。
日本の経済が世界に名乗りを挙げた時代でもありました。
教育勅語世代が社会の第一線から退き、お札から聖徳太子も消え、このころより、日本の政治・経済が衰退期に入ったといっても過言ではありません。
聖徳太子は、敏達天皇3年、用明天皇の皇子として生まれました。聖徳太子は死後につけられたおくり名で、没後100年以上を経て天平勝宝3年に編纂された『懐風藻』が初出と言われています。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載されています。
本来は厩戸皇子(うまやどのおうじ)といい、20歳の時に、皇太子となられ、推古天皇の摂政となられました。推古元年のことです。
推古天皇から政治を任された太子は、政治の改革に乗り出しました。その頃は天皇の後継問題などのことで、朝廷内部に争いごとが起こり、豪族同士がいがみ合っていました。また、太子が摂政となる4年前に、シナでは統一王朝「隋」がシナを統一し、大帝国が誕生していました。隋は勢力を伸ばし、周辺の朝鮮などの国々を従えようとしていました。太子は、天皇を中心とした強い国家を作ろうと考えて内政の充実を図られ、「和の精神」を理念として打ち立て、国家の骨組みを確立され、日本を豪族の連合国家から、天皇中心の中央集権国家にする橋を架けられました。また、外交においては、隋に対して独立自尊の精神をもって毅然とした外交を行われ、また外国文化を積極的に採り入れて自国の文化を豊かにされたのです。
太子は、推古天皇8年、隋との外交を結ぶため、初めて遣隋使を派遣されました。
残念ながら、国内には記録は残っていませんが、、隋書には記載されています。
内政において、太子は皇太子の立場で天皇を補佐し、政治の基本を作り上げました。古代日本においては、政治(まつりごと)と祭事(まつりごと)は同じでした。太子は、日本古来の「神ながらの道」を根本とされ、天皇を中心とした政治を行おうとされたのです。そのために重要なものが、官位十二階と十七条憲法であり、お国柄を表したものです。
太子は推古天皇11年に冠位十二階を制定しました。徳・仁・礼・信・義・智に,それぞれ大徳・小徳というように大小をつけて12種の位を作られ、それを冠の色によって区別し、個人の能力や功労に応じて位を与えられました。これは、官位は、豪族の中から氏(うじ)や姓(かばね)にかかわりなく、能力や功績によって授けるとするもので、豪族の支配する世の中から、公の官僚が政治を行う国にしようされたのです。これが我国の中央集権国家建設の基礎となります
推古天皇12年に十七条憲法を制定されます。十七条憲法は、日本で初めての成文憲法であり、また世界最古の憲法とも言われます。もっとも憲法といっても今日のような国家の基本法ではなく、官僚の職務心得であり、同時に人間の踏み行う道徳基準を示すされたものとなっています。
その中に、わが国のあり方、国柄が表現されています。
まずその内容を簡約にて示すと、各条の大意は次のとおりです。(樋口清之著『逆・日本史』祥伝社より引用)
第1条 和を以って貴しとなし、忤(さから)うることなきを宗とせよ〔調和・協力の精神〕
第2条 篤く三宝を敬え〔仏教への尊崇〕
第3条 詔を承りては、かならず謹(つつし)め〔忠君の精神〕
第4条 群卿百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼をもって本とせよ〔礼節の精神〕
第5条 餐(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄てて、明らかに訴訟を弁(わきま)えよ〔贈収賄の禁止〕
第6条 (略)人の善を匿(かく)すことなく、悪を見てはかならず匡(ただ)せ〔勧善懲悪〕
第7条 人各(ひとおのおの)任(よさし)あり。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし〔職権濫用の禁止〕
第8条 群卿百寮、早く朝(まい)り晏(おそ)く退(まか)でよ〔遅刻・早退の禁止〕
第9条 信(まこと)は是れ、義(こころ)の本なり、事毎(ことごと)に信あれ。〔誠実の精神〕
第10条 忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもえりのいかり)を棄てて、人の違(たが)うを怒らざれ。〔叱責の禁止〕
第11条 功過(いさみあやまち)を明察(あきらか)にして、賞罰(たまいものつみなえ)かならず当てよ〔信賞必罰〕
第12条 国司・国造、百姓に斂(おさ)めとることなかれ〔地方官の私税禁止〕
第13条 諸(もろもろ)の任(よ)させる官者(つかさびと)、同じく職掌(つかさごと)を知れ〔職務怠慢の禁止〕
第14条 群卿百寮、嫉妬あることなかれ〔嫉妬の禁止〕
第15条 私を背きて、公に向(おもむ)くは、是れ臣(やっこ)が道なり〔滅私奉公〕
第16条 民を使うに時をもってするは、古(いにしえ)の良典(よきのり)なり〔農繁期の労役の禁止〕
第17条 大事(おおきなること)を独り断(さだ)むべからず〔独断専行の禁止〕
十七条に及ぶ憲法に共通するものは、「和」です。第1条は、「和を以て貴しとなし」という言葉で始まります。「和」を説く条文が、最初に置かれていることは、聖徳太子が、いかに「和」を重視されていたかを示すものです。第1条には、次のようなことが記されています。
「和は貴いものである。むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならない。人々が上も下も調和して、睦まじく議論して合意したならば、おのずから道理にかない、何ごとも成し遂げられないことはない」。
太子は、「和」という言葉で、今日の政治のような単なる妥協や融和を説いているのではなく、「人々が調和すれば、どんなことでも成し遂げられる」という積極的な理念を説かれているのです。
また、続く条文において、太子は「和」を実現するための心構えを説いています。すなわち、第10条では人への恨みや怒りを戒め、第14条では人への嫉妬を禁じ、第15条では「私(わたくし)」を超えて「公(おおやけ)」に尽くすように説かれています。そして、最後の第17条には、「独り断ずべからず。必ず衆とともに論ずべし」と記されています。つまり、「重大なことは一人で決定してはならない。必ず多くの人々とともに議論すべきである」という意味です。これは第1条に通じます。
太子は十七条憲法を制定するにあたり、当時、シナから入ってきた儒教・仏教・法家等の思想を深く研究され、そのうえで、キーワードにされたのが、「和」でした。儒教には「和」という徳目はなく、徳目の中心は、孔子では「仁」、後代では「孝」「義」(我国では忠)です。仏教にも「和」という徳目はなく、法家などでも同様です。太子は、外国思想を模倣するのではなく、独自の考えをもって、「和」の重視を打ち出したのです。そして、これは、やまと民族の行動原理を、見事に表したものと言えましょう。
第2条には「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」とあります。聖徳太子は、仏教の興隆に力を入れました。しかし、太子は日本を仏教国にしようとしたのではありません。聖徳太子の父・用明天皇について、『日本書紀』に「仏法を信じ、神道を尊ぶ」と書いています。「神道を尊ぶ」とは、日本の神々や皇室の先祖を敬うことです。太子もまた、神々や祖先の崇拝は当然の前提として、新たに仏教を取り入れようと言割われています。敬神崇祖は、我国の文化であり、口にするまでもない当然の前提であって、それゆえ太子も憲法の中では、神道については特に触れていません。
太子伝に、「神道は道の根本、天地と共に起り、以て人の始道を説く。儒道は道の枝葉、生黎と共に起り、以て人の中道を説く。仏道は道の華美、人智熟して後に起り、以て人の終道を説く。強いて之を好み之を悪むは是れ私情なり」と記されています。つまり、太子は、日本古来の神道を根本として堅持しながら、外来の仏教を積極的に採り入れたのです。同時に儒教・道教なども学んだうえで、日本固有の価値観である「和の精神」を思想として表現したのです。
太子は、仏教の受容において、固有の精神文化(神道)を保ちながら、外来の宗教(仏教)を摂取して共存させるという形を可能にしたのです。これは、わが国の「和魂洋才」「和魂漢才」と言われる外来文明を受容する最初の型となりました。外国の文化でよいところは採り入れ、自国に合った形で活用する、また固有のものを保ちながら、外来のものを摂取して共存させるのです。
こうした我国の文明は、文明の形成期にしっかりしたパターンが定式されたので、外来文化を積極的に採り入れても、日本独自の特徴を失うことなく、日本の伝統を維持していくことができました。それは聖徳太子が始まりといっても過言ではないでしょう。
次にに重要なことは、天皇陛下と公民の関係が樹立されたことです。聖徳太子は、天皇を中心としつつ豪族が政治権力に参加する政治制度を説かれています。その理念が「和」です。十七条憲法は、第1条の「和を以て貴しとなし…」という言葉で始まることは、先に述べましたが、以下の条文では私利私情や独断を戒め、話し合いに基づく政治を行うことを説かれています。
「和」の理念の下に、天皇を中心とした公共の秩序を形成するには、「公」が「私」より尊重されなければなりません。太子の憲法第12条には、「国に二君なく、民に両主(ふたりのあるじ)なし。率土(くにのうち)の兆民(おほみたから)、王(きみ)を以って主とす」とあります。すなわち、国の中心は一つである、中心は二つもない。国土も人民も、主は天皇であるとし、国民統合の中心は、天皇であることを明記しました。太子は、さまざまな氏族が土地と人民を私有していたのを改め、国土も人民もすべて天皇に帰属するという理念を掲げられたのです。
第3条には「詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め」とあります。太子は、豪族・官僚たちが天皇の言葉に従うように、記しています。そして、第15条には「私を背きて、公に向(おもむ)くは、是れ臣(やっこ)が道なり」とあります。すなわち、私利私欲を超えて、公共のために奉仕することが、官僚の道であると説いています。ここに我国における「公と私」のあり方が示されました。
投稿文字数に限りがありますので、次回に続きます。