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関東大震災での朝鮮人虐殺 犠牲者身元を初確認=韓国
【東京、済州聨合ニュース】1923年の関東大震災での朝鮮人虐殺に関する証言や記録と一致する犠牲者の身元と遺族が、韓国で初めて確認された。
聨合ニュースが東京・旧亀戸警察署での虐殺事件の目撃証言記録などを基に探したところ、済州島出身の一家5人、趙卯松(チョ・ミョソン)さん(当時32歳)、その妻と息子、趙さんの2人の兄弟が虐殺の犠牲者だったと分かった。
当時、亀戸署で通訳として働いていた朝鮮人とみられる人物が、「日本の軍人が一斉に剣を抜いて朝鮮人83人を一度に殺した。妊婦も1人いたが、腹を切った時に出た子どもまで突き殺した」と証言し、朝鮮人虐殺の実態を調査していた在日本韓国基督教青年会の崔承万(チェ・スンマン)氏が記録した。1970年に日本で発行された「コリア評論」に掲載された資料には亀戸署の犠牲者として5人の名前が記され、このうち3人が趙さんの姓、住所と一致する。
一家全員が犠牲となったために趙さんに直系子孫はおらず、最も近い7親等・8親等にあたる親戚が済州市などに暮らしていることが分かった。この遺族に会って族譜(家系に関する記録)を確認したところ、犠牲になったのは3人ではなく5人で、いずれも「忌9月1日 日本国関東地震犠牲別世」「1923年日本国関東地震 日本国政府蛮行により虐殺される」と記されている。遺族は「昔からうちで、当時ムンおばあさん(趙さんの妻)が妊娠中に犠牲になったという話を聞いていた」と話した。
一家の死亡事実は済州島南部にある西帰浦市の役場の除籍簿でも確認された。東京で関東大震災により死亡したと記載されている。
日本の市民団体「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の西崎雅夫氏は「犠牲者の身元などが確認されたことで、日本政府に対する責任追及、賠償請求などが具体化され得る」と話した。
遺族の趙ミンソンさんは「過去の過ちへの反省がない日本の態度は、歴史を正しく認識できていないため。真心のこもった謝罪を引き出すためにも過去に対する正確な調査が行われなければならない」と強調した。
聯合ニュース 1月21日
>1923年の関東大震災での朝鮮人虐殺に関する証言や記録と一致する犠牲者の身元と遺族が、韓国で初めて確認された。
寝言は寝て言え!
韓国人や左翼など反日勢力は、関東大震災発生直後に朝鮮人大虐殺事件が起きたと歴史を捏造しています。
そして反日勢力は、日本の子供たちに「関東大震災朝鮮人大虐殺」を事実だと教えています。
修学旅行中の中学生は、朝鮮大学校の在日朝鮮人から「関東大震災で朝鮮人が暴動を起こしたというデマが流れ、朝鮮人狩りも行われた」と、朝鮮人大虐殺を事実と学びました。
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>当時、亀戸署で通訳として働いていた朝鮮人とみられる人物が、「日本の軍人が一斉に剣を抜いて朝鮮人83人を一度に殺した。妊婦も1人いたが、腹を切った時に出た子どもまで突き殺した」と証言
朝鮮人とみられる人物の証言か^^
このような虐殺は、ベトナム戦争で韓国軍がやったことです。
韓国人は、「亀戸事件」を朝鮮人虐殺にすり替えようとしています。
東京都の亀戸では、社会主義者の川合義虎、平沢計七らが、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署に捕らえられ、習志野騎兵第13連隊によって刺殺された事件がありました。
この左翼殺害の「亀戸事件」は、「戒厳令下の適正な軍の行動」であるとして事件は不問に付されており、しかも、朝鮮人は一人も殺害されていません。
【亀戸事件】
1923年9月1日に起こった関東大震災の混乱に乗じ,東京亀戸警察署で9名の労働運動家が虐殺された事件。9月3日,元友愛会幹部・元純労働者組合組合長平沢計七,共産青年同盟委員長・南葛労働会組合員川合義虎らが亀戸警察署に拘留され,同夜から5日未明の間に騎兵第13連隊の兵士によって殺された。10月10日に事件が発表されたが,事件発生直後から南葛労働会,総同盟などの労働組合と自由法曹団が真相究明に乗りだした。
(碑裏)1923年(大正12年)9月1日関東一帯を襲った大震災の混乱に乗して天皇制警察国家権力は特高警察の手によって被災者救護に献身していた南葛飾の革命的労働者9名を逮捕、亀戸署に監禁し戒厳司令部直轄軍隊に命じて虐殺した。惨殺の日時場所ならびに遺骸の所在は今なお不明である。労働者の勝利を確信しつつ権力の蛮行に斃れた表記革命戦士が心血をそそいで解放の旗をひるがえしたこの地に建碑して犠牲者の南葛魂を永遠に記念する。
1970年9月4日
亀戸虐殺事件建碑実行委員会
1970年9月4日
亀戸虐殺事件建碑実行委員会
関東大震災で朝鮮人大虐殺は起きておらず、朝鮮人により日本人が殺害されたことが真実です。
関東大震災直後に、朝鮮人テロリスト集団と暴徒化した在日朝鮮人から、家族や町内を守ろうとして自警団が戦いました。
この過程で、巻き添えになって殺害された一般の朝鮮人犠牲者がいただけです。
1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災は、死者・行方不明者は10万5385人、被災者190万人以上という未曾有の大災害でした。
大震災発生直後に、「朝鮮人が暴徒化して、井戸に毒を入れている」「略奪や放火をしている」などのデマが流れて、朝鮮人の大量虐殺があったとされています。
後述しますが、虐殺された朝鮮人犠牲者は当初2万人とされて、現在でも、デマを信じた日本人が数千人の朝鮮人を虐殺したとされています。
しかし、朝鮮人が暴徒化したのは事実であり、日本人の正当防衛による朝鮮人殺害はありましたが、朝鮮人の大虐殺はありませんでした。
1910年に「日韓併合条約」(韓国併合ニ関スル条約)が締結されました。
1917年のロシア革命で、共産ロシアは日本の赤化を企んで、朝鮮の独立運動を支持して、日本の社会主義者たちを煽動しました。
1919年に、大韓帝國初代皇帝高宗の死をきっかけに朝鮮で三・一運動と呼ばれる独立運動が起こり、当時の朝鮮総督府はこれを鎮圧しました。
在日朝鮮人の人口は、1918年(大正7)年に1万4501人でしたが、関東大震災の1923年には8万617人と急増しました。
その中に、朝鮮独立を目指す朝鮮独立運動家のテロリストたちが混じっていました。
ロシアの支援を受けた朝鮮独立運動家のテロ集団と、日本の社会主義者が共謀をして、日本を拠点にさまざまなテロ工作を行うようになりました。
朝鮮人と社会主義者の真の目的は、1923年11月27日に予定されていた「御大典」という、皇太子(後の昭和天皇)御成婚の儀での波状テロと言われています。
摂政宮である皇太子殿下を暗殺して、日本の国体を揺るがせることで、日本の共産化・朝鮮独立運動の勝利が目標だったといわれています。
御成婚の儀は、関東大震災が起こったために延期されました。
朝鮮人テロリスト集団は、関東大震災を好機到来として、家屋への放火や、日本人を殺害して、混乱を増大させて独立運動を盛り上げようとしました。
関東大震災で、朝鮮人が最初に暴徒化したのは、震源地に近くて被害が甚大だった横浜で、地震により警察は機能不全に陥っていました。
東京・横浜では震災直後から火事場泥棒などを取り締まるために、町内ごとに自警団が組織されていました。
朝鮮人は徒党を組み、略奪、暴行を繰り返しながら、多摩川を越えて東京西部に侵入をしました。
関東大震災直後の混乱の中で、朝鮮人テロリスト集団が日本人被災者に対して無差別攻撃を仕掛けて、震災を逃れた日本人被災者たちが多数殺されました。
自警団が、朝鮮人テロリスト集団と戦った過程で、巻き添えになって殺害された一般の朝鮮人犠牲者もいました。
しかし、震災下の混乱にあるテロとの戦いの犠牲者で、朝鮮人の虐殺ではありません。
暴徒化した在日朝鮮人から、家族や町内を守ろうとして自警団が戦った結果、殺害された一般の朝鮮人犠牲者も同じです。
関東大震災の翌日、9月2日に樹立した山本権兵衛内閣で、後藤新平が内務大臣兼帝都復興院総裁に就任しました。
後藤新平は、事態をこのまま放置すると、朝鮮人暴徒と日本人自警団の抗争が激化して内戦状態になるのではないかと危惧して、報道を差し止めました。
後藤新平は、警視庁幹部だった正力松太郎に、「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼らとてそのままは引き下がらないだろう。必ずその報復がくる。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあったら、腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは自警団には気の毒だが引いてもらう。」と語ったといわれています。
■1.「朝鮮人を電柱に縛りつけ、眼球をくり抜いて鼻をそぎ、、、」
関東大震災の翌年、大正13(1924)年5月、在東京英国大使館から、ジェームズ・ラムゼイ・マクドナルド英首相に、あるパンフレットが送付された。『日本での朝鮮人大虐殺』と題した小冊子で、横浜の英国総領事あてに郵送されてきたものである。その中には、次のようなおどろおどろしい記述があった。[1,p245]
_____
1923年9月1日ごろ(JOG注: 震災当日)、日本政府は一般大衆のほか、兵士、警察本部、自警団に向けて無線で特別命令を出し、「朝鮮人の老若男女を街角で見つけるか、家の中、あるいはどこかに隠れているのを見つけたら、いつでも殺害せよ」と指示した。・・・
騎馬兵はあらゆる方角から朝鮮人を追いかけ、銃撃を加えて皆殺しにした。このようにして殺された人数は次の通りである。
ハダ(羽田?)2000、隅田川沿い400、品川300,サキダマケン(埼玉県?)駅400・・・
しかし、最も痛ましい殺人は、いわゆる自警団や民衆によって行われた。「朝鮮人だ、朝鮮人だ」と叫び、朝鮮人攻撃に加わった。彼等は朝鮮人を電柱に縛りつけ、眼球をくり抜いて鼻をそぎ、腹を切り裂いて腸が飛び出るままにした。・・・
2万人以上の罪なき人が野蛮な日本人によって虐殺された。朝鮮人に開かれている道はただ一つ。それは「日本人が朝鮮人を殺したように、日本人を殺すこと」だ。
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「眼球をくり抜いて鼻をそぎ」というのは、中国や朝鮮でかつて行われていた虐殺方法だが、我が国では聞いたことがない。どうも「南京事件」と同様、中国や朝鮮が絡むと、そこに登場する日本人は突然、大陸・半島風の残虐さを発揮するようだ。
今日でも流布されている関東大震災における「朝鮮人虐殺」が、すでにこのように国際的な政治宣伝に使われていたのである。
■2.「そう住民が思い込んだのには根拠がまったくないわけではない」
この小冊子を本国に送るにあたって、在京英国大使館は次のようなメモをつけている。[1,p244]
______
小職の複数の報告でお分かりの通り、大震災後に多くの朝鮮人が殺害されたことは疑いのない事実であります。しかし、不幸な出来事はこの小冊子の著者によって著しく誇張されており、日本の当局が虐殺を扇動したという筆者の指摘には根拠がないと考えます。
東京や横浜の住民は恐慌状態に陥り、朝鮮人が略奪や政治的復讐のため家々に火を放っていると思いました。小職には放火があったともなかったとも証明する手立てはありませんが、欧州人を含む事情通の多くは、そう住民が思い込んだのには根拠がまったくないわけではないと考えています。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
すなわち、英国大使館の見る所では:
・大震災後に多くの朝鮮人が虐殺された。
・日本の当局がそれを扇動したわけではない。
・住人は、朝鮮人が略奪や政治的復讐のために放火した、と思った。
・そう思い込んだのは、根拠がまったくないわけではない。
当時の英国大使館といえば、中立的客観的な見方のできる立場にあった。当時の史実を丹念に分析した工藤美代子氏の労作『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』があきらかにしたところも、この英国大使館の見方を大筋で一致している。
(震災下のテロとの戦い)抜粋
関東大震災直後に、日本人が命がけで朝鮮人を守っており、朝鮮人も事実だと認めて感謝しています。
横浜の鶴見警察署長の大川常吉は、警察に保護された朝鮮人300人のために、警察を取り囲んだ1000人の群衆に対峙しました。
そして、「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」・「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って、一升ビンの水を飲み干したと言われています。
関東大震災直後に東京とその近郊にいた朝鮮人の総人口は約9800人で、死亡や行方不明は約20%くらいだと考えられています。
軍や警察は、朝鮮人を保護するために、習志野陸軍廠舎や各警察署などに6800人を収容して、毛布や握り飯が支給されて負傷者は軍医から手当を施されました。
この時点で、190万人の日本人被災者の相当部分が、野宿をしたり、食糧不足に苦しんだりしたことを考えても、朝鮮人を手厚く保護していました。
関東大震災の直後に発足した山本権兵衛内閣は、治安回復に乗り出して、9月2日に東京全市、京浜地区に戒厳令が敷かれました。
戒厳令司令部は、過剰防衛として日本人367人を逮捕して、殺害された朝鮮人は233人と公表しています。
つまり、関東大震災で朝鮮人がテロを企てたり、暴徒化したりしなければ、日本人にも朝鮮人にも犠牲者が一人もでなかったのが真実なのです。
韓国メディアの「日本の軍人が一斉に剣を抜いて朝鮮人83人を一度に殺した。妊婦も1人いたが、腹を切った時に出た子どもまで突き殺した」という報道も嘘です。
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