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[転載]天皇とその御責任

天皇とその御責任
 
 
戦後、私が皇后宮大夫兼侍従次長として、再び両陛下のお側にお仕えする
ようになったのは、昭和二十年の十月のことであった。思えば、昭和五年
侍従兼皇后宮事務官の職をはなれてから十数年ぷりで、その間、私は、
宮内大臣官房秘書課長、総務課長、内匠頭、帝室会計審査局長官と、
いろいろな仕事に従事したが、久しぷりで侍従職に帰ってみると、往時とは
事情が一変しているのに気がついた。
 
永年の間、君側にあって、常時、輔弼の重責を担ってきた内大臣府が戦後、
すでに廃止されて、その仕事は侍従職に移管されている。
 
連合軍の国内進駐、時が時だけに、皇室の将来を憂える論客、隠士、或はまた、
一情報を入手するために万金一擲を辞せぬ有志があるかと思えば、また一方
には、占領軍との特殊な関係を笠に得意満面の俄か官僚等々、大波小波よせ
くる中に、侍従職は立った次第であった。
 
当時は、いつ何んどき、何が起るか、油断のならぬ時節であったので、私は
ベッドを侍従職の自室に持ち込んで夜を過ごすことが多くなり、従って夜毎に、
陛下のお室で、ゆっくり、いろいろなお話を承わる機会を持つようになった。
当時、天皇の戦争責任に関する占領軍当局の調査は、かなり手厳しいものが
あったらしい。
 
 
これに対する日本政府の釈明としては、日本は立憲君主国であるから、政治
上の最高責任者と軍事上の最高責任者とが一致して開戦を上奏してきた場合
には、天皇はこれを裁可せざるを得ない。この場合、もし天皇が独自の判断を
以て、これを拒否したとするならば、それは専制君主的の行動であって、立憲
君主としては、到底なし得ざるところである。ということであったように聞き及ん
でいるが、
 
 
陛下から、ゆっくりいろいろと、お話しを承っているうちに、私が私なりに考えた
ことは、次のようなことであった。前掲の日本政府の釈明もさることながら、
陛下のお心のうちには、若し自分が開戦を絶対に許さなかったならば、軍部の
隠忍自重も遂いにその限界に達するであろうし、もし一歩でも、その限界を踏み
越えたとなれば、あとは感情の激発するところ、却って狂暴なる戦が開始され、
その結果、永く世界歴史の上に、日本人の汚名を残こすようなことになるので
はなかろうか、という、まことに悲痛な御心配と御覚悟とがあったのではなか
ろうか。
 
 
かく思うとき、私は明治十年、薩摩に於ける西郷隆盛挙兵の心情がよく判る
ような気がした。忠誠なる彼が、陛下に敵対するような考のないことは明瞭で
あり、且つ日本陸軍育だての親の一人として、鹿児島一地方の兵カが全日本
陸軍の兵力に対し、到底対抗のできないことは百も承知の上でありながら、
敢て薩摩隼人(さつまはやと)の強請に応じて立ち上ったのは、わが愛する
若殿原に見苦しい狂(くる)い死(じに)はさせたくない。この際、自分が統制を
とって、われもろとも立派に玉砕しょう、という自分の名誉も命も捨てた最後の
処置であったのではなかろうか。
 
開戦当時、私はお側にお仕えしていなかったが、ほんとに偶然なことで、
ちょうど日米戦端の開かれた昭和十六年十二月八日の朝、三十分ばかり、
陛下にお目にかかることになった。当時、私は帝室会計審査局長官の職に
あったが、長官の仕事は、宮内大臣の指揮監督外に立って、宮内省会計の
全般に亙って、これを審査した上、独自の判断を以て、その適否を直接、
陛下に上奏する責任を持っていた。この拝謁上奏の時期は毎年十二月が
常例であったので、私は十一月の中旬、侍従職を経て、陛下に十二月何日の
何時に拝謁上奏いたすぺきや御都合をお伺いしたところ、十二月八日午前
十時との御指定があった。
 
八日の朝早く、私はわが家の庭の梅の木の下に立った、というのは、上奏の
とき図表を御説明する指し棒として、わが家の庭の梅の若枝一本を持参する
のを毎年の例としていたからである。適当な枝を、と選んでいると、そのとき、
ラジオが俄然威勢のいい軍艦マーチを放送しはじめ、続いて日米海軍衝突、
真珠湾奇襲攻撃成功の重大ニュースが発表され、日頃静かな私たちの街も
俄かに騒然としてきた。
 
さては、いよいよ日米衝突か、今日の上奏は当然お取止めになるだろうと
思ったが、侍従職から何ら取りやめの電話がないので、私は予定時刻に
侍従職に出頭した。私の到著をきいて、百武侍従長がでてこられ、只今、
御前で重大な会議が開かれているから、暫らく待たれるように、とのことで
あった。三十分ばかりたって拝謁したが、陛下は、いかにもお寝不足の
御様子である。会計審査報告などは、何も今日に限ったことではない、
いつでもよろしいのに、陛下は一旦おきめになったことは、なかなか御変更に
ならない。私は、陛下のお疲れを思い、いつもなら一時間位かかる上奏を、
三十分ばかりに短縮して御前を退出することにしたが、数年問お側におった
関係から、つい、いよいよ戦が始まりまして、と申上げたところ、極めて
沈痛な御様子で、真珠湾の緒戦には幸い成功したが・・・・ねと仰せに
なっただけでお言葉がない
 
 
続く
 
 
 
               元侍従次長 木下道雄 著  「皇室と国民」より
 
 
 
 
 
 

転載元: サイタニのブログ


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