荒天下の分列式
大正十五年の暮、大正天皇の崩去に伴う諒闇(つつしみ)の昭和二年も
静かに過ぎ、人々は左腕の喪章もとりはずして、いよいよ、今上陛下の
即位の大礼を迎える昭和三年に入った。この年の秋、京都で行われる
即位式の日程も発表される。京都から東京にお帰りになったら、何日には
陸軍大観兵式、何日には海軍大観艦式、何日には何と、奉祝の行事は、
次から次へときまってゆく。行き逢う人ごとに、お目出とうと喜びの声は
全国をおおい、津々浦々、人みな勇み浮き立っている。
宮内省も大礼の準備に忙がしくなり始めたが、これに引かえ、この頃から、
陛下の側近に奉仕する侍従のわれわれは、何ごとか沈思黙考の陛下の
おん憂いのお姿を頻繁に拝するようになった。お口にだしては何も仰せに
ならないが、それだけに、御心中は深くお察し申し上げなければならない。
摂政御在任五年、御践祚後すでに一年余、無私、ただ国と民との将来の
安危を憂える一念で、政治の機微に触れてこられた陛下のお胸のうちに、
いま来往するものは、果して何であらうか。第一次世界大戦後、巴里の
講和会議に於いて、わが国の提唱にかかる人種平等案の否決は、たし
かに世界平和のため、由々しき悪因ながら、覆水ふたたび盆には、かえ
らない。これに端を発し、大正十三年、北米合衆国に於ける排日移民法
の実施、昭和二年より三年にかけての、中国に於ける日貨排斥運動、
及び欧米一部人士の使嗾による排日教育の激化、ジュネーヴに於ける
日英米海軍々縮会議の決裂、済南に於ける日支両軍の衝突、更に近く
は、満洲に於ける張作霖将軍の爆死事件等、国家の前途、西に東に、
は、満洲に於ける張作霖将軍の爆死事件等、国家の前途、西に東に、
黒雲むらがり電光ひらめくのを、陛下は、いち早く望見しておられたのでは
なからうか。
この国家の難局を打開する一人の政治家もなきか。議会たのむに足らずと
する軍部の台頭に、国民はまさに歓呼の嵐を送ろうとしている。やんぬる哉、
邦家の艱難必ず来ると、もんもんの幾日夜、遂いに国民と同艱共苦の御覚悟
を固められたのも、この頃ではなかったか、と私は思う。東京府でも、奉祝行事
として数々の催おしを企てたが、そのうちで最も大がかりのものは、府下の大学、
高等学校、中学校、青年訓練所の男女学生及び在郷軍人等約五万の参加の
下に、代々木練兵場に於て挙行する男子の分列式及び女子の奉祝歌奉唱の
行事であった。
ところが、これを伝え闘いた隣りの千葉、埼玉、山梨、神奈川の四県から
約三万の参加申込があり、結局参加総人員は八万となってしまった。こんな
多人数になると、雨天順延ということは、どうしても、できない。それは、これら
の多数の人員を泊める宿舎が東京にはないからである。また青年訓練所の
勤労青年の参加がある以上、毎月一日と十五日との公休日を除いては、他に
適当な日がない。更にまた、雨天でも決行するということになると、代々木は
泥檸が甚だしいので、二重橋前の広場以外には適当な場所がない。以上の
ような訳で、東京府としては、両陛下が京都から御帰京後、十二月十五日
午後二時より一時間二十分の間、晴雨に拘らず二重橋前広場で、東京、
千葉、埼玉、山梨、神奈川の一府四県の青年男女八万の分列式及び奉祝歌
奉唱の式を行ない、これに陛下の御親臨を仰ぎたいという案を以て、あらかじめ、
宮内省に申し入れがあつた。
この申し入れに関し、宮内省でも会議を開いたが、一同は相当難色を示した。
殆んど一ヵ月に亙る御即位の各種の行事で、陛下も随分お疲れであろうし、
且つ既に寒冷季に入た十二月中旬に一時間二十分にも及ぷ長時間、野外に
お立ちを願うことは、御健康上いかがであろうか、殊に晴雨に拘らずという
ことであると尚更である。一木宮内大臣は非常に心配されたが、とにかく、事は
陛下ご自身の御行動に関することであるので、席上に、陛下の御内意を伺う
べく指示があった。これは昭和三年の夏の末ごろであつたと記憶する。私は
早遼、陛下に式の次第を御説明して御内意を伺がったところ、十二月十五日と
いう式の日どりについて、暫らく考えておいでになったが、夜の祭にさえ差支が
起らぬならば、他はすぺて、それでよろしいとの御意見であった。夜の祭とは、
例年十二月十五日の夜には、賢所御神楽(かしこどころみかぐら)の儀という
祭事が執行されるので、陛下のお寝みになるのは、どうしても、夜半の十二時
を過ぎる日なのである。
御同意と同時に、陛下は二つのことを私に御指示になった。一つは、もし雨が
降ったならば、青年たちには遠慮なく雨具を着用させること、もう一つは、
ご自身のお立になる場所には、たとえ、いかように大雨がふっても天幕は
張ってはならぬということであった。これは明らかに、もし雨が降るならば、
青年たちだけを雨の中に立たせてはおかない。ご自身も共に、というご
覚悟であろう。
陛下の御同意を得たので、分列式の準備は東京府庁の手で着々と進められた。
私は宮内省側の主務官を命ぜられ、東京府と連絡して式の準備にとりかかった。
計画の一番の難点は十二月十四日の夜半から十五日の朝にかけて、千葉、
埼王、山梨、神奈川の各県から続々と臨時列車で入京する三万余の集団を、
いかように手順よく二重橋前の広場附近に集結させ、定刻に分列式及び奉唱式
に参加させるかということであったが、これは予め府から陸軍省に交渉し、今村
(均)中佐以下数名の将校の努力によつて立派に計画実施された。また式のとき、
陛下のお立ちになるところとしては、二重橋前の傾斜地の中央に、四尺(一メー
ル余)ばかりの高さの一坪(三・三平万メートル)の台を設けることにしたが、私は
陛下の御指示どおり、係りの者に、いかように雨が降っても、天幕を張ってはな
らぬ旨、予めよく申し渡しておいた。
いよいよ十二月十四日、準備万端でき上ったが、ただ気にかかるのは天気
予報だ。明日晴天なりとは一言もいってくれない。夕刻に私は式場を一巡したが、
玉座(陛下のお立ちになる台のこと)には私の指示通り天幕は張ってなく、ただ
白布で木部が巻いてあるだげであった。私はわが家に帰って、お天気を心配
しながら床についたが、十五日の夜明けに豪雨の音で眼がさめた。豪雨も豪雨、
近年稀れな大雨で、しかも西北の強風にあおられて、雨戸もあけられぬような
嵐、庭の木の枝も折れんばかりに、ゆさぷられている。驚いた私は、すぐさま
宮内省に急いだ。
二重橋の前に行ってみると、なんと玉座には金色燦たる菊花御紋章のかが
やいた天幕が一張り張ってあり、且つは正面を除く三方も色幕で雨水が入い
らぬように囲ってあるではないか。何たることをしてくれたかと、腹も立ったが、
さすがにこの大雨では係りの者も張らずにはおけなかったのだろう、と思い
直して、別に小言もいわず、そのまま侍従職に急いだ。雨はいよいよ降りしきる
ばかりで、一向やむ様子もない。十時頃私は一人で、楠公銅像附近を見廻って
みた。ここは女子の団体、七千名の集合地点に当てられていたので、心配の
あまり、見に行った訳だ。見ると雨宿りする蔭もないので、新聞紙或はふろしきを
頭にのせて、立ちながら早昼をたべている。傘を持っているものもいるし、持って
いないものもいる。持っていない者は多分きのう家を出て汽車で来た人たちで
あろう。
侍従職に帰って、陛下に、女子の部隊はいま、かくかくの有様で、陛下のおいで
をお待ちしております、ということも申上げたが、十一時半ごろになつて、あまり
雨が降るので心配のあまり一木宮内大臣と関屋宮内次官とが珍田侍従長の
室に来られ、私を呼ばれたので、行ってみると、大臣は私に、この大雨でも
分裂をやるのか、と尋ねられる。予定通りやります。と私は答えた。大臣は更に
「玉座に天幕は張つてあるだろうね」と念をおされたので、私は今朝不本意ながら
天幕の張つてあるのを見てきているので、張つてあります、と答えると、大臣は
重ねて、「陛下は天幕の中におはいりになるであろうか」と心配そうに尋ねられる
そこで私は、「たぶん、おはいりにならないと思います」とほんとうのことを答えた
すると大臣は「それはよろしくない。きようは、こんな荒天であるから、ぜひ
天幕の中におはいりになるように、これからお願いしてくる。がしかし、防水
マントのご用意はしてあるか」と問われるので、「それは準備してあります」と
私は答えた。
続く
元侍従次長 木下道雄著 「皇室と国民」より