通潤橋 (つうじゅんきょう) - 国指定重要文化財 -
場所:上益城郡矢部町大字長原
架橋:安政元年(1854) 石工:宇一、丈八(橋本勘五郎)、甚平、他。
長さ:75.6m 幅:6.3m 高さ:20.2m 径間(スパン):27.5m 拱矢(こうし):14.4m
通潤橋は、日本最大の石造り水管橋です。農業用水路:通潤用水(幹線延長13km)に設けられた送水施設で、1964年まで水路として使われました。
通潤橋が素晴らしいのは、日本最大規模の石橋(建設当時)であることに加え、
作られてから100年以上もの間、地震や洪水に耐え、漏水もなく水を運び続けたのです。
「どうにかして白糸の台地に水を送りたい」
この思いが実現しました。 安政 元年(一八五四年)七月二十九日、一人の 惣庄屋 ( そうじょうや ) と 石工 ( いしく ) たち、そしてたくさんの村人たちの力を結集した石橋が完成したのです。 白糸台地 ( しらいとだいち ) の田畑をうるおす橋、今では 豪快 な放水で知られる 熊本県矢部町 ( くまもとけんやべまち ) の「 通潤橋 ( つうじゅんきょう ) 」です。
今から一七〇年ほど前、矢部郷に 布田保之助 ( ふたやすのすけ ) という惣庄屋がいました。布田家は代々矢部惣庄屋を務めた家柄でした。早くに父を失い苦労を重ねましたが、父と同じく村人思いの保之助は、人々からの 人望 ( じんぼう ) も厚く、三十二歳で惣庄屋となったのです。保之助は、矢部郷の村々のために道路を開き、橋を 架 ( か ) け、水路をつくり、地域の発展のために力をつくしましたが、同じ矢部郷のなかにある白糸台地に水を引くということだけはどうすることもできず、心を痛めていました。
白糸台地は、周囲を深い 渓谷 ( けいこく ) に囲まれていて水に乏しく、田んぼの水どころか飲み水も足りないような状態だったのです。そんなある日、保之助は六キロメートル離れた 笹原川 ( ささはらがわ ) から水を引き、白糸台地を取り囲む谷に橋を架け、その上に水路を通して送水することを思い付きました。
とはいっても、三〇メートルもある高い橋を架ける技術はありませんでしたから、橋をできるだけ低くし、送水可能な 受益面積 ( じゅえきめんせき ) を広げるために 吹上式 ( ふきあげしき ) (サイフォンのような 連通管 ( れんつうかん ) の原理)を応用して、橋より高い白糸台地へ水を送ることにしました。この原理は、保之助が壊れた軒の 雨樋 ( あまどい ) から水が吹き上がるのを見て思い付いたといいます。
保之助は吹上式の 樋 ( とい ) を分厚い松の板でつくり、通水実験を繰り返しましたが、激しい水圧で樋はひとたまりもなく破られ、木片は深い谷底へと落ちていきました。そこで今度は、石管で水路をつくろうといろいろな実験を重ねました。
必要な水量を確保するために三本の石管を通すことになり、石樋の継ぎ目からの吹出しを防ぐ手立てとして「 八斗漆喰 ( はっとしっくい ) 」という特殊な漆喰を開発しました。これは、松葉を煮詰めたものに石うすで引いた赤土や、川砂、貝灰、松葉、卵を練り混ぜたものです。石樋の穴の周りを 井桁状 ( いげたじょう ) に二条の 溝 ( みぞ ) を掘り、送り 棒 ( ぼう ) で突いて漆喰穴に詰めていくため、一日一個か一個半しか漆喰を詰められなかったといいます。
大きさや水圧、つなぎ方や材質などさまざまな研究を重ね、 試行錯誤 ( しこうさくご ) を繰り返し、 嘉永 ( かえい ) 六年(一八五三年)にようやく橋の建設に取りかかりました。この難工事を石工たちは、わずか1年8ケ月で完成させたと伝えられています。
(用水路の工事に21,000人、通潤橋の工事には6,000人が従事しました)
通潤橋中央部のアップ
普段は土で被われていて見ることができない3本の通水管目地からの漏水防止と亀裂の生じた石管の交換に重点が置かれるそうです。
通水試験をして、漏水箇所の特定や漏水原因の解明をおこなうそうです。
なお、石管の接着には在来工法である漆喰を使います。
いよいよ初めて水を通すという日、保之助は 白装束 ( しろしょうぞく ) に身を包み、 懐 ( ふところ ) に短刀をしのばせて橋の中央に座ったといわれています。多くの人々の意志を受けて完成した水路橋と運命をともにしようと固く決心していたのです。保之助の合図で水門が開かれると、水は石管のなかを勢いよく走り、保之助の体には水の流れが伝わりました。橋は水の勢いに耐え、谷をまたぎ、堂々とその姿をとどめると、人々の歓声が上がりました。
着工してわずか一年八ヵ月という異例の早さで水路橋が完成したのは、保之助の指導力の高さはもちろんですが、 種山石工 ( たねやまいしく ) と呼ばれた石工たちの技術、そして矢部郷の人たちのたゆまぬ努力がありました。白糸の村人たちだけではなく、矢部郷全域から集まった人々が、白糸台地を救うため、保之助を中心として橋の完成へ向けて一丸となって努力したのでしょう。保之助の 執念 ( しゅうねん ) と種山石工たちの技術、そして矢部郷の人々の願いが一つとなり実を結んだのです。
間もなく白糸村には、通潤橋の 灌 ( かん ) がいによって新田が開かれ、村は豊かになり、藩も収益を増しました。それからは、保之助が村を通ると聞くと、家のなかにいる者まで走り出てていねいにあいさつしたということです。
布田保之助は、矢部郷の農民から神としてたたえられ、現在では通潤橋のそばにある 布田神社 ( ふたじんじゃ ) にまつられています。
白糸台地の稲穂は、毎年のように黄金色に染まります。生命の水を渡した橋は、今もなお深い谷間に虹のような姿をたたえ、白糸台地の生命を支える橋となったのです。
通潤橋を見守る布田保之助
布田保之助は、矢部周辺の土木・農業事業に尽力し、生涯に道路110Km、用水路200Km、石橋14基などを建設しました。通潤橋の建設には、私財まで投げうったそうです。
雄亀滝橋 (おけだきばし) -熊本県指定重要文化財 -
場所:下益城郡砥用町(ともち)大字石野
架橋:文化14年(1817) 石工:岩永三五郎(橋本勘五郎の叔父、当時25歳)
長さ:15.5m 幅:3.6m 高さ:7.4m 径間:11.8m 拱矢(こうし):5.4m
雄亀滝橋は、国道218号の霊台橋付近から、かなり山奥に入ったところにあります(近くには緑川ダム)。
雄亀滝橋は、通潤橋と同じく水を運ぶ橋で、現在でも現役の水路橋として、柏川井手(延長11Km)からの水を、約230haの田畑に運んでいます。
雄亀滝橋は、砥用町で一番古い石橋で、水路橋としては熊本県で二番目に古いものです。
ちなみに熊本県で一番古い水路橋は、御船町の八瀬水路橋(1814年架橋)、
日本一古い水路橋は、福岡県大牟田市の早鐘眼鏡橋(はやがね、1674年架橋)です。
霊台橋 (れいたいきょう) -国指定重要文化財 -
場所:下益城郡砥用町(ともち)大字清水
架橋:弘化4年(1847) 石工:卯助、宇一、丈八(橋本勘五郎)ら72人、大工:万助、伴七、延べ4万4千人
長さ:89.9m 幅:5.4m 高さ:16.0m 径間(スパン):28.4m 拱矢(こうし):14.2m
国道218号のすぐ脇にある、砥用町が誇る日本最大の石橋(単一アーチスパン)です。
霊台橋は、砥用の総庄屋 篠原善兵衛(ささわら ぜんべえ)の発案のもと、石工たちが、わずか10ケ月で完成させたとされています。
江戸時代も終わり頃、肥後の山村で、次々と日本最大の石橋が建設されました。
それも幕府や藩によってではなく、村の庄屋の発案の下、腕利きの石工たちの活躍で今日も威風堂々とその容姿を保っています。
彼らをそこまでさせたのは何だったのでしょうか?
今ではあまり語られなくなった「滅私奉公」の精神、現在より少しでもよい郷土、よい国にして次の世代へ繋ぐ、「日本精神」だったのです。