神道に教えというものはないのか、と聞かれることがあります。
なぜなら、神道には教義や教典、教祖が存在しないからです。だから教えが一切無い信仰だと誤解している人が殆どではないでしょうか?
仏教やキリスト教イスラム教のように煩雑な教えこそありませんが、人としての生き方を教えてくれる言葉が「古事記」や「日本書紀」「万葉集」はじめ、多くの古典に記されています。
神典である「古事記」「日本書紀」をはじめとして、「万葉集」「古今和歌集」のような歌集、「徒然草」のような随筆、そして「竹取物語」や「源氏物語」のような物語など、古典を読むと確かに日本人が昔から持っていた思想、倫理観や道徳というのがよくわかります。
しかし、体系的、教義的なものにはなりませんでした。理由はいろいろありますが、古代は文字がなかった時代も長く、さらに皆が自明のことでしたから神道の思想を言葉でまとめる必要もありませんでした。そして中国から思想が入ってきます。論理的な言葉を持つ仏教と儒教に圧倒された日本人はそれらをうけいれました。しかし、神祇の道はやめることなく続けてきました。
仏教は除災招福の理屈にも長け、また死後の世界についての形式も担当することになりました。儒教は全面的に受容はしませんでしたが、日本人の気に入るところだけその言葉を借りました。神道はただ、現世の除災招福に限定された存在として残ることになりました。この神儒仏一体体制が長らく続いた結果、神道はその教え、思想を体系的にまとめる必要が無かったのです。
神道の思想を表わした言葉はいくつかあります。「敬神崇祖」「明浄正直」など良い言葉が代表的です。その他に神道を説明する上で重要な言葉が三つあります。それは「自然」「成長」「永遠」です。
ここで言う「自然」とは、森や川といった自然環境だけでなく、「不自然」という言葉があるように、自然というのは人間社会や科学の法則なども含めた、この世のすべての環境を含んだ言葉です。日本人はあるもの、あることについて自然、不自然を感じてきたわけです。やはり不自然なものは速く壊れる、というのも一つの真理です。自然というのをありのままに認める、というのが神道では重要なのです。
本ブログでも幾度となく述べてきましたが、神話において、我国のことを豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)、葦原中国(あしはらのなかつくに)とも呼んでいます。いずれも葦が出てきます。これは古代の日本が葦が非常にたくさん茂っていたということもありますが、葦の成長力、繁殖力に古代の日本人は大いに敬服していた、と言うことだと思われます。また、日本は四季がありますが、冬には葉が落ちて死んでしまったようになる木々が、春になるとまた葉が出てくる、ということを見て、古代の人はそこに生命力の復活、強さを見て、また神の力を感じたのです。
そのため生産、繁殖、繁栄といったものが成長する力を尊んできたわけです。
ですから、人間も子孫を残して繁栄するということを重要視してきましたし、また世の中も成長していき、よりよい社会を作り上げていく、ということが必要と考えてきました。一人の人間としても成長してより優れた人間になるよう日々努力する、たとえ老人になっても、ということが神道では大切なのです。
永遠の命が欲しくて、不老不死の薬を探し求めた中国の始皇帝などの権力者がたくさんいましたが、今まで生きている人はいません。やはり初めがあるものは必ず終わりがあります。では神道における「永遠」とはなんでしょうか。それは「世代をつないでいく」ということです。伊勢神宮や出雲大社といった神社も木造であり、古代のものがそっくりそのまま残っているわけではありません。本ブログ神社のお話(十二)神宮でも述べていますが、伊勢神宮では二十年、出雲大社では六十年と定期的に遷宮や立替え、修復を行い、新たに清新な力を得て、後代へ引き継いでいきます。
日本の「木の文化」に対し、西洋は「石の文化」といわれます。古今東西の建造物を見ていただければお解りいただけるでしょう。
エジプトのピラミッドやギリシャの神殿などのように、ヨーロッパや中近東では、石を用いて建築物や工芸品を作りました。建てたときは永久不滅のものだったのでしょうが、しかし、その多くが今では廃墟になっています。しかも、建物が壊れて廃墟になっただけではなく、それを作った技術は勿論のこと、さらには、信仰や精神も消滅しているのです。
しかし、我民族は、物も心も有限であるという考え方を基底にもっており、有限であるがゆえに、たえず新しいものに更新し続け、確実に後世に伝えていくという努力と作業を繰り返してきました。つまり、命の継承といえます。
人間も同じように祖父母、父母から得た命を子や孫に伝えて、引き継いでいく、これが神道においての「永遠」です。しかし、我民族は、物も心も有限であるという考え方を基底にもっており、有限であるがゆえに、たえず新しいものに更新し続け、確実に後世に伝えていくという努力と作業を繰り返してきました。つまり、命の継承といえます。
神道でもっとも重要なもの、それは「祭祀」です。
祭りにはいろんな祭りがあります。まず第一に挙げられるのは畏くも天皇陛下がお仕えされる宮中祭祀。神社のお祭りでは、一年に一度の例祭が一番大きなお祭りです。また、出雲大社の神在祭のようなその神社の特殊なお祭りもあり、元旦祭や大祓などの日によるお祭りもあり、毎月行う月次(つきなみ)祭もあります。それから、神葬祭やみたままつりといったご先祖のお祭り、七五三や地鎮祭、各種ご祈願のような、いわば個人のお祭りも多々あります。
では、祭りとは何なのか。改めて考えてみます。
そもそも「マツリ」という言葉は、神に食事や酒、貴重な品々を「タテマツル」(奉る)という言葉や、神の来臨を「マツ」(待つ)という言葉、服従する・仕えまつるという意味の「マツラフ」という言葉に由来するとされる。 人は神に仕えまつることで神霊の威力を増し、その恩恵を享受できると考えてきた。
井上順孝編著『図解雑学神道』ナツメ社より
つまり、神さまのために捧げる祭りを熱心に行えば行うほど、神さまの霊威が上がって私たちもお力を頂くことができるのです。
幣帛(神饌)
祭りでまず大切なものは、神さまへの捧げもの「幣帛(へいはく)」です。食べ物である神饌を始め、その昔は布や珍しいもの、あるいは武具や馬などもお供えしましたが、現在では幣帛料としてお金を捧げることも多くなっています。
お祭りに先だって修祓(しゅばつ)を行います。修祓とは祓(はらえ)を行うことです。神職が大麻(おおぬさ)を左右左と振って、奉仕者、参列者の祓を行い、心身を清らかな状態に帰ることを目的とします。お祭りや参拝の前に手水で手を洗い、口をすすぐのも祓の一つです。なお、形だけでなくて心も清らかにならないといけません。
修祓(しゅばつ)
お祭りに先だって修祓(しゅばつ)を行います。修祓とは祓(はらえ)を行うことです。神職が大麻(おおぬさ)を左右左と振って、奉仕者、参列者の祓を行い、心身を清らかな状態に帰ることを目的とします。お祭りや参拝の前に手水で手を洗い、口をすすぐのも祓の一つです。なお、形だけでなくて心も清らかにならないといけません。
祝詞(のりと)
日本の国は「言霊の幸はう国」ということで、言葉には事を動かす力があると考えてきました。祭りでは必ず神職が祝詞を奏上します。独特の古い言葉で書かれていますが、神さまを讃え、神さまのご加護を祈る言葉です。祝詞奏上中は静粛にし、また平伏します。
玉串
玉串は神さまの御霊と自分の霊とをつなぐもの。大切な瞬間です。心をこめて祈りましょう。
今一度、日本人は日本人の原点に立返る時ではないでしょうか・・・
「神さまに対して恥じない眞(まこと)のこころ」へ・・
直会
混沌とする世の中が続く今の日本で、かって日本人がもっていた「清き美しいこころ」は、日本人の道徳、そして祖先の生きる指針となっていました。神さまが召し上がった神饌を私たちが頂くのが直会(なおらい)です。神人共食し、神さまの御霊に触れた食べ物を人間が頂いて、またお力をいただきます。
日本人は概ね神道の信徒です。ぜひお祭りに参列下さい。自分の住むところの氏神様のお祭りに参加することは非常によいことです。どなたでも参列になれますのでお越し下さい。一緒にお仕えいたしましょう。
筆者は神職ではありませんが、神道について学びたいと尋ねられますが、まずは古事記と日本書紀を読んで下さいと答えています。、そして、神道についての基本的な本を1、2冊読むのがいいでしょう、とお話ししています。
筆者は神職ではありませんが、神道について学びたいと尋ねられますが、まずは古事記と日本書紀を読んで下さいと答えています。、そして、神道についての基本的な本を1、2冊読むのがいいでしょう、とお話ししています。
今一度、日本人は日本人の原点に立返る時ではないでしょうか・・・
「神さまに対して恥じない眞(まこと)のこころ」へ・・