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[転載]日本人の心に根を張る「結い」の精神 佐藤佐平治(さとうさへいじ)

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(ゆい)とは、主に小さな集落や自治単位における共同作業の制度のことで、一人で行うには多大な費用と期間、そして労力が必要な作業を、集落の住民総出で助け合い、協力し合う相互扶助の精神で成り立っていることをいいます。
畜を起源に、常にニューフロンティア(新たな開拓地)を求めるのが西欧文明ですが、それに対し、日本をはじめ東アジアの農耕文明は「田作りに象徴されるように泥の風土で培われた」。農村では一軒が田作りをやめると、そこに害虫が繁殖したり、水が下まで流れなくなる。田んぼは水を介してつながり、集落もヒトやモノ、さらには「情」をめぐらせながら、相互扶助で生きていく。そこで培われたのが皆で助け合う「結い」でした。
近代日本は西欧文明を模範とし、先祖伝来の長い年月をかけ、民族自らが築き上げたシステムを否定してきました。
 生まれ故郷を捨て立身出世することを是とする教育や政策がずっとなされてきたように筆者は思います。例えば、大正期に発表された唱歌「故郷(ふるさと)」の三番で「志を はたして いつの日にか 帰らん」と歌うように・・・・
 「今は変わり続ける都市文明がもてはやされるが、本来の日本は、四季など毎年めぐってくる変わらないものがある風土が歴史や文化という力になってきたのです。
 グローバリズムは助け合いではなく、激しい競争を招き、歳月が培った文化ではなく、目に見える成果を求め、立ち止まる人間は非効率だと切り捨てられ、他人を思いやり、情を掛け合ういとまを与えないのが実情です。
今日の殺伐とした世情が本当の日本の国のありかたでしょうか?



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佐藤佐平治翁肖像




江戸時代、 越後 ( えちご ) (現在の新潟県)では 凶作 と 飢饉 が続いて、多くの人々が苦しみました。このようななか、長年にわたって 救済 活動にあたったのが 三島郡片貝村 ( さんとうぐんかたかいむら ) (現在の 小千谷市片貝町 ( おぢやしかたかいまち ) )の 佐藤家 ( さとうけ ) です。佐藤家は、代々 佐平治 ( さへいじ ) を名のっていましたが、特に十九代と二十一代が行った大規模な 救援 活動は有名です。
佐藤家は、最初の救援を 寛文 八年(一六六八年)に行っています。その後も救済活動を続けてきましたが、地主と酒造業で蓄えたお金を、本格的に難民の救済にあてたのは 天明 三年(一七八三年)から続いた天明の大飢饉のときでした。第十九代の佐平治のときです。
天明三年の夏、 浅間山 ( あさまやま ) が 大噴火 しました。火山灰が降り続いて低温となり、折からの長雨による洪水で農作物が大不作になりました。
多くの人が飢えに苦しみ、難民となって佐平治を頼ってやって来ました。近くの人はもちろん、五里(約二〇キロメートル)、十里(約四〇キロメートル)の遠くから、 杖 にすがり手を引かれてやって来た人もいました。
佐平治は、酒をつくるときに使う大きな 釜 で、 粟 ( あわ ) や 稗 ( ひえ ) を煮て、 粥 ( かゆ ) や 雑炊 ( ぞうすい ) をつくって 施 ( ほどこ ) しました。初めのうちは一日二〇〇人くらいでしたが、次第に人数が増えて、ついには一七〇〇人にもなりました。佐平治は、病人に古着や 紙衣 ( かみこ ) (紙製の雨具)なども与えました。毎日毎日多くの難民が来るので、人手不足になり助けを求めに来た人までが手伝ったといいます。
天明六年(一七八六年)には、佐平治は酒づくりを中止して、多くの人々に米を安く売ってあげました。また天明七年にも、自宅で多くの難民に雑炊や紙衣を与え、小屋をつくって病人を収容し、治療しました。
佐平治の難民救済は、村人や 小作人 に物を施すといったものと違いました。佐平治を頼って来るすべての人々に対する、無償の愛がありました。
佐平治の救援活動に対して、幕府の 出雲崎 ( いずもざき ) (現在の三島郡 出雲崎町 ( いずもざきまち ) )代官所は、銀一〇枚の 褒美 ( ほうび ) を与え、一代限りの 帯刀 ( たいとう ) と末代までの 苗字 ( みょうじ ) (帯刀は刀を身に付けること。当時は帯刀も苗字も武士以外は許されていませんでした)を特別に許しました。
苗字と帯刀を許された佐平治は、少しもおごりませんでした。それからもいつも変わらずに質素に暮らして、非常用の粟や稗、味噌、昆布、干し大根などを蓄えました。
佐平治を 慕 ( した ) って集まった村人には、 炉端 で「 忍 ( にん ) 」の一字を書いて、 堪忍 ( かんにん ) の心を説きました。そのため晩年の佐平治は、人々に 忍字翁 ( にんじおう ) と呼ばれて尊敬されたそうです。

忍字翁は天明の飢饉の際、周辺の村々を助けて回った。支援の総額は現代の金額で約6億円といわれ、一時は借金で佐藤家が傾いたほどという。庄屋の記録には「自分1人の歓楽は水の泡のようなもの」と、他人を思いやることに重きを置いた翁の言葉が残っています。

 佐藤家は、天明の飢饉の後も家業に励むとともに、酒づくりの利益と小作米を積み立てて非常時に備えました。それらは小屋や蔵に収めきれなくなりました。
二十一代佐平治は、蓄えた 籾 ( もみ ) 、稗、昆布、味噌などに金三〇〇両を添えて、 文化 十二年(一八一五年)に代官所に非常救援用として預けました。代官所はこの三〇〇両を他領の農民に貸し付けて、その利息を暮らしに困った人々に渡しました。この方法は、 天保年間 (一八三〇年~一八四四年)まで、三島郡、 魚沼郡 ( うおぬまぐん ) 、 頚城郡 ( くびきぐん ) 、 刈羽郡 ( かりわぐん ) で行われました。多い年には二〇〇人を超える人たちが、その恩恵を受けたといわれています。
二十一代佐平治は、天保の飢饉にも積極的な救援活動をしました。人々への米の安売りや病人の手当ての他、天明の飢饉のときと同じように、頼って来た人々には食べ物や着る物を分け与え、さらに 秋山郷 ( あきやまごう ) にも援助の手を差し伸べました。
秋山郷は 北信州 ( きたしんしゅう ) の 高井郡箕作村 ( たかいぐんみづくりむら ) (現在の長野県 下水内郡栄村 ( しもみのちぐんさかえむら ) )から、 中津川 ( なかつがわ ) に沿って越後の魚沼郡 結東村 ( けっとうむら ) (現在の 津南町結東 ( つなんまちけっとう ) )におよぶ小さな村むらのことです。この地域はこのころ水田がほとんどなくて米はとれず、 焼畑 で粟・稗・ 黍 ( きび ) を栽培し、栗や 栃 ( とち ) の 実 ( み ) も食べて暮らしていました。このため、 餓死 ( がし ) した人や全滅した村もあり、飢きんの深刻さは特別でした。
この地域を代表していた 外丸村 ( とまるむら ) (現在の津南町 外丸 ( とまる ) )の 庄屋福原新左衛門 ( しょうやふくはらしんざえもん ) の救援 要請 を快く引き受けた佐平治は、籾や稗、お金を送りました。なかでも天保四年(一八三三年)には、秋山郷の農民が、雪のなかを必死の思いで佐平治の家と村を往復して救援物資を運びました。こうして、秋山郷の飢饉は被害を少なくできたのでした。このとき、佐平治から秋山郷の結東村に金三両二分が送られました。 貨幣 ( かへい ) の形態は変わりましたが、このお金は、昭和四十二年(一九六七年)の二十六代佐平治まで一三五年間送り続けられたのでした。
そして利息だけで432両(現在価値約8600万円)に上った。

 結東集落では利息を積み立て、明治時代に七町七反(7・7ヘクタール)の棚田を開墾。結東の石垣田として残り、農林水産省の「美しい日本のむら景観百選」にも選ばれている。




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佐平治記念碑前では今日も子孫などが参加し祭りが行われています


 津南町結東に佐藤佐平治の記念 碑 があります。昭和六十一年(一九八六年)八月、記念碑の前で「第一回佐平治祭」が行われました。それから毎年、佐藤家や福原家の子孫、片貝町や結東地区の人たちと栄村の人たちが参加して祭りが開催されています。




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秋山郷の住民は佐平治の碑を訪れ、今も恩を忘れない=新潟県津南町で




九年前、小千谷市は新潟県中越地震に見舞われた。
 「佐平治の恩を返すのは、今」。結東集落から、住民十数人が支援に駆けつけ、800人分のキノコ汁を振る舞った。毎年の佐平治祭りと片貝の花火大会のときには、互いの住民を招き合う。絆は今も変わらない。

「つながりと利他を重んじた佐平治の心こそ今の世に大切」であり、祖先が長い年月かかって作り上げた「泥の文化」すなわち、「結い」の精神こそ我々日本人の「日本のこころ」ではないでしょうか?

転載元: 美し国(うましくに)


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