世襲親王家と側室制度
万世一系を担保してきた側室制度
皇統を守るためのもう一つの安全装置は、ほかでもなく「側室制度」で
あった。世襲親王家と側室制度の存在が、万世一系の皇統を繋いできた。
また側室は 天皇家特有のものではない。十五代の徳川将軍のうち、実に
十二代が側室の生まれであり、正室生まれの将軍は、家康、家光、慶喜
の三代しかいなかった。
天皇の配偶者は正室と側室に大別することができる。正室の中で最も
地位が高いのがいうまでもなく嫡妻に当たる皇后であるが、皇后に続く
身分として准后(じゅごう)、女御(にょうご)などの地位があり、
これらが正室に該当する。しかし正室といえども複数存在する場合もある
。複数の正室を持った 天皇は追贈を含めると二十七代に上り、全体の
五分の一に当たる。
また後醍醐天皇は皇后二人、女御一人を立てており、皇后ですら並立する
場合がある。一方正室を持たなかった 天皇もある。また歴代の天皇は
正室以外にも側室を持つ場合が多かった。側室について知るためには
先ず 天皇の日常生活の空間である御内儀(おないぎ)について理解する
必要がある。御内儀は男子の出入りが禁じられた空間であり、そこで
天皇の身の回りの世話を行うのは全て未婚の女性であった。
そしてそこには厳しい階級制度が存在していた。役職名や役割などは
時代とともに変化するが身分が細かく分けられ、仕事内容も細分化されて
いた。数ある女官の階級の中でも、高等女官と呼ばれる一握りの女官
だけが 天皇の寝室に献る側室ということになる。しかし、高等女官は
全員が 天皇と夜を共にするわけではなく、「お清(きよ)」と呼ばれる
寝室に侍らない者もおり、高等女官の大半はこの「お清」になる。
天皇の寝室に侍りながらも皇子女を生むことのなかった側室は記録されて
いないが、実際は多数存在していたと考えてよい。つまり正室は決め
られた手続きと儀式を執り行なって正式に受け入れられるものであるが、
側室は非公式なものであり、皇子女を生むことによって、その生んだ
ことの記録が残されるのみであり、側室という身分を与えられるものでは
ないため、子供を生まなかった側室はその存在自体が記録されることが
ないからだ。
したがって 天皇の側に仕える女官にとっては、先ず 天皇の御手掛
(おてか)けになれるかどうか・そして健康な皇子女を出産できるか
どうかが自らの出世を左右する重要な要素となる。まして男の子を
生んでその子が皇太子にでもなろうものならこの上ない栄誉を与え
られることになるのだ。水面下で熾烈な争いがあったことが想像でき
るだろう。
歴史的にみると 天皇が複数の配偶者を置く慣習があって初めて
天皇家が長年にわたって一系の皇統を維持することができたといえる。
正室が皇子を出産しなくても、側室が出産することで皇統断絶の危機を
幾度も乗り越えてきたのだ。19世紀以降を眺めても六代の天皇のうち
実に四代、つまり仁孝天皇、孝明天皇、明治天皇、大正天皇は全て
生母が側室である。しかし側室の子であることが
天皇としての価値を微塵たりとも減じることはない。
側室の制度そのものが始めから予定されていたからだ。このように、
万世一系を保つために、世襲親王家と側室制度の二つの安全装置が
常に用意されていた。
側室制度は皇統の危機を招かぬよう、日頃から皇族を繁栄させ、それでも
皇統の危機が訪れた場合は世襲親王家から 天皇を擁立することで男系に
よる万世一系を守り抜いてきたのだ。
続く
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より
続く
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より