< 開城工団:交渉してやるニダ!慰安所の日記.その2 >
慰安所:朝鮮人男性従業員の日記発見 ビルマなどでつづる また、日記には「航空隊所属の慰安所2カ所が兵站(へいたん)管理に委譲された」(43年7月19日)、「夫婦生活をするために(慰安所を)出た春代、弘子は、兵站の命令で再び慰安婦として金泉館に戻ることになったという」(同29日)などと、慰安所や慰安婦と軍の関係が記されている。 一方、「鉄道部隊で映画(上映)があるといって、慰安婦たちが見物に行ってきた」(43年8月13日)、「慰安婦に頼まれた送金600円を本人の貯金から引き出して、中央郵便局から送った」(44年10月27日)など、日常生活の一端がうかがえる内容もあった。 ◇従軍慰安婦問題 第二次大戦中に日本が支配した植民地や占領地などから女性が慰安所に集められ、日本の将兵から性的被害を受けたとされる問題。1990年に韓国の女性団体が日韓両国に真相解明や謝罪、補償を求めたのをきっかけに社会問題化した。日本政府は93年8月、慰安所設置や慰安婦移送に旧日本軍が直接、間接に関与したことを認め、「軍の関与の下に女性の名誉と尊厳を傷つけた」と謝罪する「河野談話」を発表した。ただ、女性の連行段階での軍の関わりについては、第1次安倍内閣当時の07年、「政府が発見した資料には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」という答弁書が閣議決定された。 かの国で、戦中慰安所で働いていた男の日記が見つかったようだぞ! まず、上の写真を見て注目すべき点は、漢字+ハングルで書かれていることだな。 おかしいな? かの国では、日帝の陰謀でハングルを消滅させられたとか騒がれているが、この矛盾はどのように説明するのだろうか? まあ、彼らに論理的に説明を求めるのも無謀だと思うがw 慰安所従業員:日記発見 慰安婦の日常、淡々と 募集の時期は欠落 【ソウル澤田克己】ビルマ(現ミャンマー)とシンガポールの慰安所で働き、日記を残した朝鮮人男性は、1942年夏から44年末までの東南アジア滞在中に慰安所3カ所の帳場で働いた。日記には、慰安婦の管理や、軍や役所との折衝といった日常生活が淡々とつづられている。 慰安所が旧日本軍の管理下にあったことは、軍の文書でも確認されている。日記にも「慰安婦を連れて連隊本部とその他3、4カ所に新年のあいさつに行ってきた」(43年1月1日)や、連隊本部などから定期的に避妊具を受け取ったりしたという記述が、頻繁に見られる。 軍から移転命令があり「慰安婦一同は絶対反対」(同3月10日)したが、結局は「司令部命令に勝てず移すことになった」(同14日)などの記述から、軍との密接な関係をうかがわせる。 日記の著者は、ビルマ西部の要衝アキャブ(現シットウェ)からラングーン(現ヤンゴン)へ移った。その際、軍から宿舎の提供を受け「火村小隊の車に火村小隊長少尉らと7人で乗って」(同年1月21日)もいる。 日記を発見した安秉直(アンビョンジク)ソウル大名誉教授は「軍属に準じる扱いを受けていたようだ」と話す。 日記からは、前線であるビルマと後方地域のシンガポールとの違いもうかがえる。シンガポールでの日記には、慰安婦の「廃業」や「帰国」に関する記述が多く出てくるが、ビルマではそうした記述は見られない。 著者はシンガポール在住時の44年10月25日、元慰安婦が結婚したので「知己の人を呼んで祝賀の酒を飲むと誘われた」という。 ビルマでは既に日本軍が敗走を重ねていた時期で、連合軍の尋問調書などによると、多くの慰安婦が巻き添えで犠牲になっていた。 一方、日本軍は、定期的に慰安婦を検診し、性病にかかった場合は入院させた。日記にも「検査不合格者が6人も入院した」(44年5月12日)などという記述が多く見られる。「妊娠7カ月なので、休業届を提出した」(同7月4日)というケースや、慰安婦の出産(同9月5日)もあった。 日記には、朝鮮における慰安婦募集に関する記述はない。日韓両国では朝鮮半島で慰安婦を集めるときに強制連行があったかどうかに強い関心が持たれているだけに、安名誉教授は「この時期の日記が欠落しているのは残念だ」と話す。 ただ、米外交問題評議会のジェイムス・リンゼイ上級副会長は毎日新聞に対し、米国で慰安婦問題への批判が強い理由について「女性への性暴力が大きな政治的関心を呼ぶようになった世界的な流れが背景にある」と指摘。強制連行の有無は大きな論点ではなく、慰安婦という制度そのものへの向き合い方が問題視されているとの認識を示した。 ============== ◆慰安所従業員の日記 抜粋 ◇1943年 1月 1日 ビルマ国アキャブ市(現シットウェ)の慰安所、勘八倶楽部(くらぶ)で起きて、宮城(皇居)に向かって遥拝(ようはい)した。家内の弟と○桓君は、<慰安婦を連れて連隊本部とその他3、4カ所に新年のあいさつに行ってきた。> 1月 2日 昨日は元日で休業し、今日から慰安業を始める。 1月 9日 今日の検査の結果、病気だった○千代と○子の2人が不合格で、その他16人はみんな合格だった。 1月12日 連隊本部へ行き、慰安婦の収入報告書を提出した。 1月13日 連隊本部医務室から衛生サック(コンドーム)1000個を持ってきた。 1月16日 午後6時ごろ連隊本部事務室で、数日前に頼んだラングーンへの出張証明書をもらった。 1月18日 同行の友となった中村上等兵と兵站へ行って朝飯を食べ、某少尉の案内で彼の部隊へ行って寝食をすることにする。某少尉も同行してラングーンまで行くという。 1月21日 ビルマ国タンガップの<火村小隊の車に火村小隊長少尉らと7人で乗って、午前11時にタンガップを出発した。> 1月25日 横浜正金銀行ラングーン支店で3万2000円を貯金した。 1月29日 朝鮮から一緒に来た野沢氏に会った。マンダレーの方で慰安所をしていたが、今は、部隊の移動に従ってプロメーに移り、営業しているという。 3月10日 <55師団から、マンダレーに近いイェウーに移転しろという命令が(ビルマ国ペグー市の)金川氏の慰安所にあった。慰安婦一同は絶対反対ということだった。> 3月14日 <金川氏は司令部命令に勝てず、慰安所をイェウーへ移すことになった。> 3月16日 金川氏は、師団連絡所からイェウー方面への移動を当分の間、中止すると言われた。 4月 5日 桜倶楽部の慰安婦、○子は腹部がとても痛み、午後、開腹手術をするのだという。○子は昨年、マンダレーにいた時も盲腸炎で手術をした。 6月 2日 (ラングーン市外)インセインの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食べた。正金銀行に行って、村山氏の慰安所の慰安婦2人の貯金をした。 6月20日 光山氏は、今回の慰安婦再編で、夫人を連れて帰国するそうだ。 6月25日 大石氏も今般、慰安婦募集のため帰国するという。 7月10日 <昨年の今日、釜山埠頭(ふとう)で乗船し、南方行きの第一歩を踏み出した日だ。もう1年になった。> 7月16日 村山氏の慰安所の慰安婦だった○子は妊娠7カ月で、胎動異常があり、今日、鈴木病院に入院したが流産だった。 7月17日 昨日、鈴木病院に入院した○子は流産後の経過が良好で、今日、車で帰ってきた。 7月19日 <インセインにいる高部隊すなわち航空隊所属の慰安所2カ所が、兵站管理に委譲された。> 7月20日 村山氏経営の慰安所、一富士楼が兵站管理となり、村山氏と新井氏は兵站司令部に行ってきた。 7月26日 インセインの慰安所2カ所が兵站管理になった後、慰安婦の検査も兵站の軍医がすることになった。 7月29日 <村山氏の慰安所の慰安婦だったが、夫婦生活をするために(慰安所を)出た春代、弘子は、兵站の命令で再び慰安婦として金泉館に戻ることになったという。> 7月30日 村山氏は8月中に帰郷する考えなのだが、もち屋と慰安所を私に引き受けろという。承諾した。 8月 8日 金川氏も慰安所を他人に譲渡して帰国するという。 8月10日 ラングーンの翠香園で慰安所組合会議に出席した。組合費として経営者は30円、慰安婦は1人2円で計62円を払った。 8月11日 近日は慰安所に来る客が少なく収入もとても減少した。 8月12日 兵站司令部に行って営業日報を提出し、サック400個を受け取った。 8月13日 <鉄道部隊で映画があるといって、慰安婦たちが見物に行ってきた。> 8月19日 兵站司令部で、サックを600個受け取った。 8月24日 村山氏が、一富士楼慰安所を9月まで自分が経営して10月初めに引き渡すというので、それではだめだと言った。 8月26日 兵站司令部で5日間の日報を提出し、サック800個を受け取った。 9月9日 ペグーの金川氏も今日、慰安所を他人に譲渡する契約を締結した。 (この後、筆者はシンガポールへ移動する) 12月 3日 ラングーンで慰安所を経営していた金田氏は去る7月初めに慰安婦を募集するため朝鮮に行った。そして今回、慰安婦25人を連れてビルマへ行く途中でシンガポールに到着した。 その2に続きます! |
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