「読書三到(どくしょさんとう)」という言葉があります。
読書に大切な三つの心得をいった四字熟語で、
眼至=目で読む
口到=口で読む
心到=心で読む
の3つを言った言葉です。
元々は宋の朱熹(しゅき)が
「訓學齋規(くんがくさいき)」という書物で唱えた言葉です。
原文では、
讀書有三到
謂心到、眼到、口到
三到之中、心到最急
とあり、意訳すると、
「読書には三つの到る道がある。それは心到、眼到、口到である。
この中で心到が最も重要なものだ」となります。
要するに、文というものは「心」で理解する事が最も大切だという事です。
私が今日申上げたいのは、我が国の国史を学ぶ時は、
実はこの「心読」が、大切だという事です。
史料に、こう書いてあるという事ではなくて、
その裏側にある事実や事情に目を向け、
そこに書かれている以上の事を読み取る。
それがないと、我が国の国史は理解できない、という事です。
昔、「と、日記には書いておこう」という言葉が流行した事があります。
今日は雨だった。だけど、日記には
「晴れで楽しい一日だった」と書いておこう、というような具合です。
因みに、私は「日本の歴史」という言葉があまり好きではありません。
「日本の歴史」は、インドの歴史、マレーシアの歴史、
アフリカの歴史、南米の歴史、
イギリスの歴史などという言葉と同列に日本の歴史を語り、
学ぼうとするものだからです。
例えば「国語の授業」を、「日本語の授業」とは呼びますまい。
歴史も、自国の歴史は、他国の歴史を学ぶのと異なり、
自国の歴史を通じて民族としての
アイデンティティを学ぶ為のものという側面があります。
ですから「日本の歴史」ではなく、正しくは「国史」です。
更に、我が国の近世以前の歴史に関しては、
公的記録が必ずしも真実を伝えないという傾向があります。
つまり、「行間を読む」という態度がなければ、本当の事が見えて来ない。
読み手が、行間にある事実を「心読」しなければ、
事実は見えてこないし、見えなければ日本の「国史」は理解できない、
唯物史観では、国史の真実は全く見えて来ないのです。
つまり、建前上の公式記録に書いてある事を、
文面通り解するというのではなくて、
読み手がその背景をしっかりと理解しないと、本当の事がみえてこない。
例えば、たてまえ上は相手を「殺害した」事にしておいて、実は逃がしておく。
多くの場合、出家して坊さんになるのですが、
「出家して坊主になる」という事は、家を捨てるという事です。
日本は、家族国家ですから、江戸以前の日本において、
自分の家を捨てるという事は、この世を捨てる事、
すなわち、この世の人としては死亡する事で、
坊主になるという事は、生まれ変わる事を意味します。
つまり、例えば、戦国大名が出家して坊さんになる事は、
名も家も地位も名誉もこれまでの実績も全部捨てて、
この世とあの世をつなぐ半分生きてて半分死んだ人になる事、
すなわちこの世の人としては、死んで生まれ変わる事を意味します。
中でも、建前上「死んだ」事にされた場合は、
二度と元の名前で歴史の表舞台に登場してはいけない。
それが日本の昔の考え方だったわけです。
有名なところでは、明智光秀がそのケースといわれています。
光秀は山崎の戦いで秀吉に破れ、
坂本を目指して落ち延びる途中の本経寺付近の竹薮で、
落ち武者狩りの百姓、中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたと伝えられています。
そして公式記録上は、光秀の首は、
読書に大切な三つの心得をいった四字熟語で、
眼至=目で読む
口到=口で読む
心到=心で読む
の3つを言った言葉です。
元々は宋の朱熹(しゅき)が
「訓學齋規(くんがくさいき)」という書物で唱えた言葉です。
原文では、
讀書有三到
謂心到、眼到、口到
三到之中、心到最急
とあり、意訳すると、
「読書には三つの到る道がある。それは心到、眼到、口到である。
この中で心到が最も重要なものだ」となります。
要するに、文というものは「心」で理解する事が最も大切だという事です。
私が今日申上げたいのは、我が国の国史を学ぶ時は、
実はこの「心読」が、大切だという事です。
史料に、こう書いてあるという事ではなくて、
その裏側にある事実や事情に目を向け、
そこに書かれている以上の事を読み取る。
それがないと、我が国の国史は理解できない、という事です。
昔、「と、日記には書いておこう」という言葉が流行した事があります。
今日は雨だった。だけど、日記には
「晴れで楽しい一日だった」と書いておこう、というような具合です。
因みに、私は「日本の歴史」という言葉があまり好きではありません。
「日本の歴史」は、インドの歴史、マレーシアの歴史、
アフリカの歴史、南米の歴史、
イギリスの歴史などという言葉と同列に日本の歴史を語り、
学ぼうとするものだからです。
例えば「国語の授業」を、「日本語の授業」とは呼びますまい。
歴史も、自国の歴史は、他国の歴史を学ぶのと異なり、
自国の歴史を通じて民族としての
アイデンティティを学ぶ為のものという側面があります。
ですから「日本の歴史」ではなく、正しくは「国史」です。
更に、我が国の近世以前の歴史に関しては、
公的記録が必ずしも真実を伝えないという傾向があります。
つまり、「行間を読む」という態度がなければ、本当の事が見えて来ない。
読み手が、行間にある事実を「心読」しなければ、
事実は見えてこないし、見えなければ日本の「国史」は理解できない、
唯物史観では、国史の真実は全く見えて来ないのです。
つまり、建前上の公式記録に書いてある事を、
文面通り解するというのではなくて、
読み手がその背景をしっかりと理解しないと、本当の事がみえてこない。
例えば、たてまえ上は相手を「殺害した」事にしておいて、実は逃がしておく。
多くの場合、出家して坊さんになるのですが、
「出家して坊主になる」という事は、家を捨てるという事です。
日本は、家族国家ですから、江戸以前の日本において、
自分の家を捨てるという事は、この世を捨てる事、
すなわち、この世の人としては死亡する事で、
坊主になるという事は、生まれ変わる事を意味します。
つまり、例えば、戦国大名が出家して坊さんになる事は、
名も家も地位も名誉もこれまでの実績も全部捨てて、
この世とあの世をつなぐ半分生きてて半分死んだ人になる事、
すなわちこの世の人としては、死んで生まれ変わる事を意味します。
中でも、建前上「死んだ」事にされた場合は、
二度と元の名前で歴史の表舞台に登場してはいけない。
それが日本の昔の考え方だったわけです。
有名なところでは、明智光秀がそのケースといわれています。
光秀は山崎の戦いで秀吉に破れ、
坂本を目指して落ち延びる途中の本経寺付近の竹薮で、
落ち武者狩りの百姓、中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたと伝えられています。
そして公式記録上は、光秀の首は、
京都の粟田口にさらされた事になっています。
けれど、別の多くの記録では、
そもそも光秀のものとして首実検に出された首は3つあり、
しかもそのいずれの首も、
顔面の皮がなぜかきれいに剥がされていたと書かれています。
更に光秀のものとして実検された首は、著しく腐敗していた。
これはどうにも辻褄があわない不思議な事です。
百姓、中村長兵衛にしてみれば、竹槍で刺し殺した相手が、
その身なりから、相当の大物であった事は、簡単に察しがついた筈です。
つまり、大金星をあげた。
大金星という事は、それなりの大きな報酬が期待できた筈です。
ならば何故、顔面の皮を剥がす必要があったのでしょうか。
顔の皮を剥がすという事は、
意図的に「誰だかわからなく」した、という事です。
なぜ、そうする必要があったのでしょうか。
別な説もあります。
百姓、中村長兵衛の竹槍で深手を負った光秀は、
股肱の家臣である溝尾茂朝に首を打たせ、
茂朝はその首を近くの竹薮に埋めたとも、
丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったとも、
或いは坂本城まで持ち帰ったともいわれています。
もしそうならば、秀吉が首実検した光秀の首は、
一体誰のものだったのでしょうか。
光秀のものとして実検された首級が
暑さで著しく腐敗していた事は他の多くの史料にも記されています。
坂本城まで持ち帰ったなら、それなりに日数も経ち、
腐敗した事はありえることかとも思いますが、
ところが谷性寺と光秀の墓がある西教寺の記録によると、
光秀のものとして首実検に出された首級は3体あったけれど、
そのいずれも顔面の皮が全て剥がされていたと書かれています。
なぜ、顔面の顔が剥がされたのでしょうか。
更に不思議な事があります。
家康の治世になると、
けれど、別の多くの記録では、
そもそも光秀のものとして首実検に出された首は3つあり、
しかもそのいずれの首も、
顔面の皮がなぜかきれいに剥がされていたと書かれています。
更に光秀のものとして実検された首は、著しく腐敗していた。
これはどうにも辻褄があわない不思議な事です。
百姓、中村長兵衛にしてみれば、竹槍で刺し殺した相手が、
その身なりから、相当の大物であった事は、簡単に察しがついた筈です。
つまり、大金星をあげた。
大金星という事は、それなりの大きな報酬が期待できた筈です。
ならば何故、顔面の皮を剥がす必要があったのでしょうか。
顔の皮を剥がすという事は、
意図的に「誰だかわからなく」した、という事です。
なぜ、そうする必要があったのでしょうか。
別な説もあります。
百姓、中村長兵衛の竹槍で深手を負った光秀は、
股肱の家臣である溝尾茂朝に首を打たせ、
茂朝はその首を近くの竹薮に埋めたとも、
丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったとも、
或いは坂本城まで持ち帰ったともいわれています。
もしそうならば、秀吉が首実検した光秀の首は、
一体誰のものだったのでしょうか。
光秀のものとして実検された首級が
暑さで著しく腐敗していた事は他の多くの史料にも記されています。
坂本城まで持ち帰ったなら、それなりに日数も経ち、
腐敗した事はありえることかとも思いますが、
ところが谷性寺と光秀の墓がある西教寺の記録によると、
光秀のものとして首実検に出された首級は3体あったけれど、
そのいずれも顔面の皮が全て剥がされていたと書かれています。
なぜ、顔面の顔が剥がされたのでしょうか。
更に不思議な事があります。
家康の治世になると、
天海僧正なる人物がいきなり家康の顧問として登場します。
その天海僧正が、実は光秀だったという説があります。
これには色々な傍証があって、
1 日光東照宮陽明門にある随身像の袴や
多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋がかたどられている
2 東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数ある。
3 日光に明智平と呼ばれる区域があり、
その天海僧正が、実は光秀だったという説があります。
これには色々な傍証があって、
1 日光東照宮陽明門にある随身像の袴や
多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋がかたどられている
2 東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数ある。
3 日光に明智平と呼ばれる区域があり、
天海がそう名付けたという伝承がある。
(天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、
「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある)
4 徳川秀忠の「秀」と、徳川家光の「光」は光秀、
徳川家綱の「綱」は光秀の父の明智光綱、
徳川家継の「継」は光秀の祖父の明智光継の名に
(天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、
「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある)
4 徳川秀忠の「秀」と、徳川家光の「光」は光秀、
徳川家綱の「綱」は光秀の父の明智光綱、
徳川家継の「継」は光秀の祖父の明智光継の名に
由来してつけたのではないか。
5 光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、
比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている。
6 学僧であるはずの南光坊天海が、
関が原戦屏風に家康本陣に軍師として描かれて、
その時着たとされる鎧が残っている。
7 光秀の家老斎藤利三の娘於福が天海に会った時に
「お久しぶりです」と声をかけ、
3代将軍徳川家光の乳母(春日局)になっている。
8 光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が
大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されている。
9 テレビ東京が特別番組で行った天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、
「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出た。
10 童謡かごめかごめの歌詞に隠された
天海の暗号が光秀=天海を示すという説がある。
(以上、Wikipediaより)
ただ、私は、天海=光秀とは考えていません。
そうではなく、天海は光秀の子だったのではないかと推測しています。
なぜなら、でなければ年齢が合わないからです。
で、光秀自身も、出家して長命を保ったとみています。
光秀は、自分のもっている全ての知識を愛息子に伝授した。
見た目も光秀そっくりに育った息子は、春日局からみても、
光秀に生き写しだったのではないかと思うのです。
光秀が生きていたとすれば、秀吉もその事実は知っていた筈です。
知っていて、主君信長の仇である光秀を生かしておく。
これまた不思議な事です。
そうなると、もしかすると、
光秀と秀吉の戦い(山崎の戦い)そのもの、
そして信長が殺されたとされる本能寺の変まで、
壮大な茶番だったかもしれないと思えてきます。
つまり、比叡山や本願寺といった仏教勢力を
信長は叩き潰しているのですが、
実は、当時の世の中にあって、奈良時代以降、
我が国の最大の武闘的政治勢力が仏教勢力でした。
彼らは、僧兵軍団を持ち、豊富な経済力と、
その武装軍事力をもって、朝廷にも多大な影響力を及ぼし続けていました。
天下布武、国の政治権力を、一つに統合する必要を感じていた信長は、
同時に、海外との交流も盛んに行った人物でもあります。
つまり、当時の世界において、スペイン、ポルトガルが、
世界の諸国を植民地化し、奴隷化しているという現状を、
当時の日本の主立った大名達は知悉しています。
ならばこそ、日本を一日も早く統一しなければ、
海外勢力に日本も蹂躙されてしまう可能性を否定できない。
けれど、武門の力によって国内を統一しようとする時、
最大の障害となったのが、武装仏教勢力です。
けれど、これを打ち破るのは、長い伝統と歴史、
そして人々の信仰を破壊する事になる。
これを行う者は、報復を未来永劫受け続ける事にもなる。
ならば、信長は、仏教勢力の武装解除を実現した時点で、
光秀に殺されたことにし、「俺はシャムにでも行って、
余生を気楽にすごすよ」となった可能性も否定できません。
なぜなら、日本人の一般的傾向として、権力に安閑としない、
それを潔しとしない、という傾向があるからです。
公式に「死んだ」事にすれば、余生はのんびりと過ごせます。
で、信頼する光秀に自分を討たせ、国を出る。
光秀は、当然、その時点で逆臣となります。
ならば、その光秀を誰かが討たなきゃならない。
一切を承知で大芝居の白羽の矢を立てれるのは、
信長家臣団を見回しても、糟糠の家臣である秀吉しかいません。
しかも秀吉は百姓の出であり、その百姓が天下人になる事で、
百姓達が安心して暮らせる平和な日本を築く足がかり、
イメージを演出する事ができる。
もしかすると、そういう大芝居が、
信長、光秀、秀吉、家康の中でうたれたのかもしれません。
まあ、あくまでも、これは異説なのですが、
ただ、私は、歴史を学ぶということは、
そういう「もしかすると」という疑問を常に抱き続ける事で、
面白さがより増すものなのではないかと、常々思っています。
ですから、正史に書いてないから「なかった」と決めつけるのではなく、
もしかするとこうだったのではないかと、あれこれ想像してみる。
自分だったらどうするかを、あれこれ考える。
そこに、歴史を学ぶ楽しさがあるのではないかと思うのです。
日心会メルマガより
●続きます
5 光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、
比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている。
6 学僧であるはずの南光坊天海が、
関が原戦屏風に家康本陣に軍師として描かれて、
その時着たとされる鎧が残っている。
7 光秀の家老斎藤利三の娘於福が天海に会った時に
「お久しぶりです」と声をかけ、
3代将軍徳川家光の乳母(春日局)になっている。
8 光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が
大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されている。
9 テレビ東京が特別番組で行った天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、
「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出た。
10 童謡かごめかごめの歌詞に隠された
天海の暗号が光秀=天海を示すという説がある。
(以上、Wikipediaより)
ただ、私は、天海=光秀とは考えていません。
そうではなく、天海は光秀の子だったのではないかと推測しています。
なぜなら、でなければ年齢が合わないからです。
で、光秀自身も、出家して長命を保ったとみています。
光秀は、自分のもっている全ての知識を愛息子に伝授した。
見た目も光秀そっくりに育った息子は、春日局からみても、
光秀に生き写しだったのではないかと思うのです。
光秀が生きていたとすれば、秀吉もその事実は知っていた筈です。
知っていて、主君信長の仇である光秀を生かしておく。
これまた不思議な事です。
そうなると、もしかすると、
光秀と秀吉の戦い(山崎の戦い)そのもの、
そして信長が殺されたとされる本能寺の変まで、
壮大な茶番だったかもしれないと思えてきます。
つまり、比叡山や本願寺といった仏教勢力を
信長は叩き潰しているのですが、
実は、当時の世の中にあって、奈良時代以降、
我が国の最大の武闘的政治勢力が仏教勢力でした。
彼らは、僧兵軍団を持ち、豊富な経済力と、
その武装軍事力をもって、朝廷にも多大な影響力を及ぼし続けていました。
天下布武、国の政治権力を、一つに統合する必要を感じていた信長は、
同時に、海外との交流も盛んに行った人物でもあります。
つまり、当時の世界において、スペイン、ポルトガルが、
世界の諸国を植民地化し、奴隷化しているという現状を、
当時の日本の主立った大名達は知悉しています。
ならばこそ、日本を一日も早く統一しなければ、
海外勢力に日本も蹂躙されてしまう可能性を否定できない。
けれど、武門の力によって国内を統一しようとする時、
最大の障害となったのが、武装仏教勢力です。
けれど、これを打ち破るのは、長い伝統と歴史、
そして人々の信仰を破壊する事になる。
これを行う者は、報復を未来永劫受け続ける事にもなる。
ならば、信長は、仏教勢力の武装解除を実現した時点で、
光秀に殺されたことにし、「俺はシャムにでも行って、
余生を気楽にすごすよ」となった可能性も否定できません。
なぜなら、日本人の一般的傾向として、権力に安閑としない、
それを潔しとしない、という傾向があるからです。
公式に「死んだ」事にすれば、余生はのんびりと過ごせます。
で、信頼する光秀に自分を討たせ、国を出る。
光秀は、当然、その時点で逆臣となります。
ならば、その光秀を誰かが討たなきゃならない。
一切を承知で大芝居の白羽の矢を立てれるのは、
信長家臣団を見回しても、糟糠の家臣である秀吉しかいません。
しかも秀吉は百姓の出であり、その百姓が天下人になる事で、
百姓達が安心して暮らせる平和な日本を築く足がかり、
イメージを演出する事ができる。
もしかすると、そういう大芝居が、
信長、光秀、秀吉、家康の中でうたれたのかもしれません。
まあ、あくまでも、これは異説なのですが、
ただ、私は、歴史を学ぶということは、
そういう「もしかすると」という疑問を常に抱き続ける事で、
面白さがより増すものなのではないかと、常々思っています。
ですから、正史に書いてないから「なかった」と決めつけるのではなく、
もしかするとこうだったのではないかと、あれこれ想像してみる。
自分だったらどうするかを、あれこれ考える。
そこに、歴史を学ぶ楽しさがあるのではないかと思うのです。
日心会メルマガより
●続きます