歴史学者の村井節(みさお)氏は、人類文明が東西の二つの文明に分かれて、800年ごとに高調期、低調期の波を交代させながら、繰り返していることを史実によって立証した人です。先日ある冊子を読んで、初めて知りましたが、この村山氏の論を中心に近代のことが書いてあった文章を要約して紹介しつつ書いてみました。

東の文明とはアジア地域の文明で、メソポタミア文明地域以東、日本までの諸文明であり、西の文明とは、エジプト、エーゲ海域以西のもので、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパ、北米に至る文明であるそうです。
すなわち紀元前3600年~2800年の原始エジプト文明(西)、紀元前2800年~2000年の古代メソポタミア文明(東)、紀元前2000年~1200年のエジプト及びエーゲ海文明(西)、紀元前1200年~400年の古代アジア文明(東)、紀元前400年~紀元400年のギリシャ文明・ローマ帝国文明(西)、400年~1200年アジア極東文明(東)、1200年~2000年のヨーロッパ文明(西)という東西の交代がありました。その転換に要する期間はそれぞれ百年でその転換期には大きな事件や民族の大移動や戦争動乱があり、混乱の時代です。
東西文明の相違は、西が自然との対決、自然を支配する物質文明であり、物事を分割し分析して支配する科学を得意とする文明であり、対決と競争、利潤優先、物質優先の価値観です。東は、自然との共生、親和の精神文明であり、融合、調和、道義、の優先、物事の統一的全体的把握を得意とする価値観の文明です。
そしてこの文明法則に従えば、2000年を転換期として、ヨーロッパ文明から、新アジア文明に移行することになるはずです。
1200年から2000年において、ヨーロッパではルネサンスがはじまり、羅針盤の発明から、大航海時代が始まります。コロンブスのアメリカ大陸の発見、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見という地理的発見をきっかけにした中世の暗黒時代からの脱却であり、、それはまた、西洋の植民地主義の始まりでもあります。
アジアはどんどんヨーロッパの植民地になっていきます。スペインのフィリピン征服1570年、列国による東インド会社設立(イギリス1600年、オランダ1602年、フランス1604年)、英によるシンガポール領有1819年、インド併合1858年、ビルマ併合1886年、仏印の成立が1886年です。
アフリカは、ベルリン列国会議(1885年)でバターを切り分けるように分割され、1914年における大陸の独立国はエチオピア、リビアの二国のみとなりました。
アジア、アフリカが欧米列強に呑み込まれようとし、植民地化の矛先が中国や朝鮮に向けられていた時期に、日本は日清、日露の二大戦争を戦って独立を保持し、中国、朝鮮の植民地化を防ぎました。特に日露戦争は、民族国家独立への夢をアジアやアフリカに与えました。
インド独立の戦士で元首相のネールは、自伝で、「日本の勝利は私の熱狂を沸き立たせ、インドをヨーロッパへの隷属から、アジアをヨーロッパへの隷属から救い出すことに思いを馳せた」と回想しています。英国の文豪H・G・ウェルズの言うように、「アジアは、絶望的にヨーロッパに立ち遅れて、どうしても取り返しがつかないという考え方を、日本は完全にふっとばし、帝政ロシアとの戦争でアジア史に一大エポックを創り、ヨーロッパの尊大と思い上がりに終止符を打った」(『世界文化史概観』)のでした。
ネールだけではありません。トルコ独立の父、ケマル・パシャ、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノ、マレーシアのマハティールなど優れた指導者たちも、独立の夢を等しく抱いたのです。この夢を実現させるために立ち上がらせる衝撃を与え、民族国家を建国させたのが、大東亜戦争でした。
イギリスの東南アジアの拠点シンガポールが日本軍によって陥落した報に接したド・ゴールは、「アジアの白人帝国、西洋植民地体制が終焉した」と日記に書き記しました。数百年にわたる西の東に対する植民地支配は、日本軍の一撃によって崩壊したのです。同じアジア人である日本人によって白人が駆逐されたことは、アジアの人々にとって驚きであると共に、自らに大いなる自信と希望をもたらすものでした。
大東亜戦争が終わった直後、東南アジアへは、イギリス、アメリカ、フランス、そしてオランダと、植民地の宗主国が舞い戻ってきましたが、かつて支配に従順だった有色民族は、独自の兵力を持ち、もはや宗主国の支配には甘んじませんでした。一斉に民族独立の戦いに立ち上がり、1946年にインドネシア、フィリピンが独立、1947年にインド連邦、パキスタンと独立が続きました。明治維新以来の日本のアジア非植民地化の精神は、戦後これらアジア諸民族に継承され、やがてその民族主義はアフリカへも広がって行きました。
タイの元首相ククリット・プラモートは、「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供たちはすくすく育っている。今日、東南アジアの諸国民が米国と対等に話ができるのは誰のおかげか。それは、身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである」と語っています。
そしてイギリスの歴史家アーノルド・トインビーは、「第二次大戦によって、日本人は、日本人のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために偉大な歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想である大東亜共栄圏に含まれていた国々である」と記しています。
日本は、第一次大戦のパリ講和会議で国際連盟規約第二十一条に人種差別撤廃を提案したが受け入れられませんでした。しかし、大東亜戦争、第二次大戦後、1948年の国連総会で「世界人権宣言」が採択され、日本が永年努力してきた人種差別撤廃が実現したのです。
2000年から始まる新アジア文明の時代に、日本の役割は何であるか、多くの世界の国々が日本に期待しているのではないでしょうか。日本人の中にも、左右を問わず、世界を指導する原理は日本の中から生まれると述べる人も出てきています。日本は極東にありますが、それはまた西の端に近いとも言えます。東と西の文明を結び合わせることのできる和の原理を有する国でもあります。
日本人は、まず自分たち日本の精神文化を、自らの中にあるものを、掘り起こすことが必要です。その日本独自の精神文化によって世界に貢献する事ができるのだと思います。