▲ 日本と台湾―国交なき信頼関係
1990年代末、台湾に「哈日族」と呼ばれる、日本が好きでたまらない若者たちが出現。台湾の大人と日本人を驚かせた。「哈日」という言葉を創作した哈日杏子さんが、今も続く日本への熱い想いを綴った。
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2013年現在、みなさんは「哈日(ハーリー、またはハールー)症」と聞いて、どんなことを思い浮かべるでしょうか。懐かしいと思うでしょうか。それとも初めて聞く言葉でしょうか。まずはこの「哈日症」について説明しましょう。
■ 日本が好きでたまらないという造語「哈日」
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「哈日」という語は、私が創った言葉です。台湾で話される北京語には従来なかった言葉で、1996年に出版した4コマ漫画『早安日本(おはよう日本)』の中で初めて用い、自分のペンネームにも使いました。「哈」は台湾語(台湾で話される?南語[びんなんご=中国福建省南部の地方語])の「ha」から来ており、元の意味は「とっても欲しい」「欲しくてたまらない」「我慢できない」などの意味です。「日」は日本を指し、つまり「哈日」とは「日本のことが好きでたまらない」ということです。北京語ではうまく表現できなかった「日本が好き」とか「日本への熱い想い」をこれで表しました。私にとって「哈日」は治療の施しようがない末期症状であり、私は「哈日」の後に、さらに「症」という字を加えました。「哈日症」という言葉はこうしてできたのです。
それでは、「哈日症」はどのように台湾の人々に広まっていったのでしょうか。当時、私はテレビの人気ブックレビュー番組に出演する機会があり、その番組の司会者が、私の『おはよう日本』に出てくる「哈日症」を有名にしました。その後、台湾のメディアでは、日本が好きで「哈日症」になった人々を「哈日族(ハーリーズー、またはハールーズー)」と呼ぶようになっていきます。「哈日族」という言葉は台湾語・北京語・日本語の3言語に縁があり、台湾人にとっては「哈日族」という語を見ただけで意味が分かる、まさに一目瞭然の言葉です
(笑)。
私はいまだに日本留学という長年の夢をかなえていませんが、22歳の時に初めて旅行で日本を訪れ、実際の日本を目の当たりにしてからというもの、「哈日」という底なし沼に足を踏み入れてしまい、日本の魅力の虜(とりこ)となっています。漫画の他に、奥深い日本語、和食グルメ、美しき日本の風景、和服、伝統芸能、古い建築物など、どれ一つとして興味をそそられないものはありません。初めての外国旅行だった最初の訪日以来、私の中の「哈日」遺伝子が呼び覚まされ、いつの間にか六十数回の訪日となってしまいました。
1回あたりの滞在期間も回を追うごとに長くなり、以前は数日だったのが、いつの間にか数カ月に及ぶようになりました。今ではビザ期限の最後の1日まで滞在し、後ろ髪引かれるように台湾に戻っていきます。
■ 2000年にピークを迎えた「哈日」現象
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当初、私は台湾に戻るたびに、またすぐに日本に行きたいという衝動に駆られ、日本に初めて降り立った時や日本で短期研修を行った際に感じたさまざまなことを4コマ漫画にして描いていました。「阿杏」という名の漫画の主人公は重度の「哈日症」で、台湾にいても、日本にいても、常人とは思えない数々の奇妙な行動を取りますが、この主人公は私自身の分身です。1996年の『おはよう日本』の出版のタイミングは釣魚台(尖閣諸島の台湾名)事件の発生と重なり、その後台湾と日本の関係は冷え切ってしまいました。しかし、そんなハードルも、私の日本への熱い想いを消せるものではなく、1998年には、日本が私に与えた文化的なインパクトを1冊のエッセー集『我得了哈日症(私、哈日症にかかりました)』にまとめ、これ以降、作家としても活動を始めました。
▲ 「哈日」現象の火付け役となった筆者の4コマ漫画『早安日本(おはよう日本)』
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■ 私が「哈日」になった理由
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台湾と日本のことを語る上で、政治を抜きにして語ることはできません。1895年から1945年までの50年間、日本は台湾を統治しました。台湾各地には、今でも当時の日本人が建てた建築物や日本人の生活の痕跡などがたくさん残っています。台湾人が日本に抱く感情は実に複雑です。当時の台湾人は日本語
学習を強制され、日本人が定めた制度と生活モデルを受容させられました。欧米人にとっての日本のイメージは、刺し身、忍者、相撲に侍、富士山などが多いのでしょうが、(日本と台湾の歴史的経緯により)台湾人はさらに深いところまで読み取ります。
また、「哈日」が台湾で起きた理由を正しく分析するためには、台湾に住む人々の出自から考えなくてはならないでしょう。台湾で生まれ育った本省人、(中国の国共内戦での敗北後に)中国大陸から国民党軍と共に来台した外省人、台湾の先住民、(本省人や外省人の中で客家[はっか]語を母語とする)客家族。それぞれ日本への見方は違います。愛もあれば憎しみもあるでしょう。
(本省人の)私の祖父は1912年生まれで、日本統治時代を経験しました。私が小さかった頃、彼はよく私に日本語で話しかけ、日本の歌を歌って聞かせてくれました。冬は決まって腹巻きをして、普段は下駄を履いて、外出の時は必ず紳士帽をかぶり、外見は日本人そのものでした。彼は日本が憎かったのでしょうか。察するにそんなことはなかったでしょう。彼はあの時代のことをとても懐かしんでいました。大人になって「哈日族」となった私は、毎回彼に日本に行くことを伝えると、日本のどこそこの物を買ってくるように頼まれました。日本の薬、足袋、腹巻き、お菓子などが入った小包が届くと、毎回電話で長々と私にお礼と喜びを伝えました。晩年に病気になるまで、私とは日本語でやり取りをしていました。日本は彼にとって、美しく、そして消すことができない、もう一つの「過去」だったのでしょう。
では、私自身はなぜ「哈日」となったのでしょうか。私は小さい頃から絵を描くのが好きで、将来は漫画家になろうと思い、日本の漫画に魅力を感じていました。1987年以前の台湾は戒厳令下の緊張した時期にあり、日本の情報や品物は民間の闇ルート、つまり海賊版や個人輸入として、静かに広まっていました。
■ 2000年にピークを迎えた「哈日」現象
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当初、私は台湾に戻るたびに、またすぐに日本に行きたいという衝動に駆られ、日本に初めて降り立った時や日本で短期研修を行った際に感じたさまざまなことを4コマ漫画にして描いていました。「阿杏」という名の漫画の主人公は重度の「哈日症」で、台湾にいても、日本にいても、常人とは思えない数々の奇妙な行動を取りますが、この主人公は私自身の分身です。1996年の『おはよう日本』の出版のタイミングは釣魚台(尖閣諸島の台湾名)事件の発生と重なり、その後台湾と日本の関係は冷え切ってしまいました。しかし、そんなハードルも、私の日本への熱い想いを消せるものではなく、1998年には、日本が私に与えた文化的なインパクトを1冊のエッセー集『我得了哈日症(私、哈日症にかかりました)』にまとめ、これ以降、作家としても活動を始めました。
▲ 「哈日」現象の火付け役となった筆者の4コマ漫画『早安日本(おはよう日本)』
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■ 私が「哈日」になった理由
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台湾と日本のことを語る上で、政治を抜きにして語ることはできません。1895年から1945年までの50年間、日本は台湾を統治しました。台湾各地には、今でも当時の日本人が建てた建築物や日本人の生活の痕跡などがたくさん残っています。台湾人が日本に抱く感情は実に複雑です。当時の台湾人は日本語
学習を強制され、日本人が定めた制度と生活モデルを受容させられました。欧米人にとっての日本のイメージは、刺し身、忍者、相撲に侍、富士山などが多いのでしょうが、(日本と台湾の歴史的経緯により)台湾人はさらに深いところまで読み取ります。
また、「哈日」が台湾で起きた理由を正しく分析するためには、台湾に住む人々の出自から考えなくてはならないでしょう。台湾で生まれ育った本省人、(中国の国共内戦での敗北後に)中国大陸から国民党軍と共に来台した外省人、台湾の先住民、(本省人や外省人の中で客家[はっか]語を母語とする)客家族。それぞれ日本への見方は違います。愛もあれば憎しみもあるでしょう。
(本省人の)私の祖父は1912年生まれで、日本統治時代を経験しました。私が小さかった頃、彼はよく私に日本語で話しかけ、日本の歌を歌って聞かせてくれました。冬は決まって腹巻きをして、普段は下駄を履いて、外出の時は必ず紳士帽をかぶり、外見は日本人そのものでした。彼は日本が憎かったのでしょうか。察するにそんなことはなかったでしょう。彼はあの時代のことをとても懐かしんでいました。大人になって「哈日族」となった私は、毎回彼に日本に行くことを伝えると、日本のどこそこの物を買ってくるように頼まれました。日本の薬、足袋、腹巻き、お菓子などが入った小包が届くと、毎回電話で長々と私にお礼と喜びを伝えました。晩年に病気になるまで、私とは日本語でやり取りをしていました。日本は彼にとって、美しく、そして消すことができない、もう一つの「過去」だったのでしょう。
では、私自身はなぜ「哈日」となったのでしょうか。私は小さい頃から絵を描くのが好きで、将来は漫画家になろうと思い、日本の漫画に魅力を感じていました。1987年以前の台湾は戒厳令下の緊張した時期にあり、日本の情報や品物は民間の闇ルート、つまり海賊版や個人輸入として、静かに広まっていました。
日本の品物は台湾のたくさんのショッピングモールで購入できました。街中の本屋さんには日本の漫画があふれ、幼い頃の私と弟は、『ドラえもん』や『ウルトラマン』、『おそ松くん』などは、すべて台湾人の作品だと思っていたくらいでした。節約してためたお小遣いを持って、台北・西門町の「万年大楼」で日本のアイドルのポスターやブロマイド、カセットテープ(当然海賊版です)と日本製の雑誌を買って放課後に楽しむというのが、私たちの最高の娯楽でした。
長く誤解されてきた「哈日族」
「哈日」の行動パターンを一つひとつ分析しようとしても、三日三晩あっても足りないのですが、簡単に言うと、「哈日」には表面的な部分と内面的な部分があります。身なり格好や口調、実際の行動から日本が好きだということを表だってアピールする人もいれば、心と頭の中で静かに日本の企業理念や職人気質などを分析し、日本文化に敬服する人もいます。私は後者です。かつてある記者から、「哈日族はいったいどれくらいいるのですか?」と聞かれ、「恐らく正解など無いでしょう。だって私がいくら『哈日族』だと訴えても、私の身なりは至って普通で、外見からでは分からないでしょう」と答えたところ、残念ながらメディアとして求めていた答えは違っていたようで、撮影の際、私に「必勝」の二文字を記した白い鉢巻きをさせ、浴衣に下駄を履かせ、「日の丸」の扇子を持たせ、日本の記念品の前に立たせたのでした。
この写真は後日某大手新聞の紙面に掲載され、それを見た時、私は本当に心が痛みました。なぜなら、本当の「哈日」はそんなことでは断じてないからです。
以前、台湾のメディアでは、「哈日族」は「日本のことなら、見境なく何でも良い、何でもカワイイ(と言う)」と批判的に報道されていました。さらに、「哈日族」は日本の表面的な部分しか見ていない、やみくもに日本に追随し、無駄遣いをする、頭が悪い、薦められない行為などと報道されました。本当にそうなの
でしょうか。1人の「老哈日族」として、本当の「哈日」にはきちんと行動原理があることをお伝えしたいと思います。日本人やその事物、流行や精神、和食や商品が好きなのは、何ら悪いことではありませんし、ましてや私たちは、盲目的などでは決してありません。私たちは、本当に憧れに値し、愛(め)でるのに
値する事物(あるいは方向)にしか夢中にならず、日本の良くない人物や事物については、初めから興味がありません。きちんと進むべき「哈日」の方向があります。好きだからこそ、努力して理解しようと思い没頭するのです。
台湾人が日本のテレビドラマに夢中になったために、台湾でも若者向けの洗練されたドラマが作られるようになり、「哈日族」が日本ブランドのファッションに夢中になったために、台湾でもM.I.T(メード・イン・台湾)の人気ナショナルブランドが登場し、台湾にある日系デパートの美しいサービスがあったために、
台湾の地元デパートでも従業員の訓練や管理を重視するようになりました。これらは台湾にとって良い刺激であり、「哈日」が良くないなど言えないでしょう。「哈日族」は長らく大変な誤解を受けてきました。
以前、台湾のメディアでは、「哈日族」は「日本のことなら、見境なく何でも良い、何でもカワイイ(と言う)」と批判的に報道されていました。さらに、「哈日族」は日本の表面的な部分しか見ていない、やみくもに日本に追随し、無駄遣いをする、頭が悪い、薦められない行為などと報道されました。本当にそうなの
でしょうか。1人の「老哈日族」として、本当の「哈日」にはきちんと行動原理があることをお伝えしたいと思います。日本人やその事物、流行や精神、和食や商品が好きなのは、何ら悪いことではありませんし、ましてや私たちは、盲目的などでは決してありません。私たちは、本当に憧れに値し、愛(め)でるのに
値する事物(あるいは方向)にしか夢中にならず、日本の良くない人物や事物については、初めから興味がありません。きちんと進むべき「哈日」の方向があります。好きだからこそ、努力して理解しようと思い没頭するのです。
台湾人が日本のテレビドラマに夢中になったために、台湾でも若者向けの洗練されたドラマが作られるようになり、「哈日族」が日本ブランドのファッションに夢中になったために、台湾でもM.I.T(メード・イン・台湾)の人気ナショナルブランドが登場し、台湾にある日系デパートの美しいサービスがあったために、
台湾の地元デパートでも従業員の訓練や管理を重視するようになりました。これらは台湾にとって良い刺激であり、「哈日」が良くないなど言えないでしょう。「哈日族」は長らく大変な誤解を受けてきました。
私はメディアの間違った批評や報道について、ぜひこの文章を読んで、「哈日」について認識を改めていただきたいと思います。