(レンパン島で亡くなった日本兵の碑)
目に見えぬ神にむかひてはぢざるは 人の心のまことなりけり
(神様に恥じない心こそ誠です :明治天皇の御製より)
日本は大東亜戦争の開戦時に大量の敵捕虜を想定し15か所に収容施設をつくりました。
そして、英・米・蘭の将兵30万人を収容し、捕虜を管理する国の責任として彼らに寝具、衣服、食器を与えました。当時、日本人の食生活は欧米人に比べて肉類の摂取が極端に少ないものでした。 しかし、捕虜の食事はその点を配慮し、日本国民の配給を上回る特別配給を続けていました。
戦後、占領軍が日本に上陸すると直ちに捕虜キャンプに大量の食料とビタミンを届け捕虜たちを解放しました。 終戦により武装解除された軍隊は戦時捕虜ではありませんが、日本の内地に復員するまで日本将兵は事実上”捕虜”として扱われました。 しかも、その扱いは言語に絶するものでありました。
シンガポール南方のこの無人島に日本兵8万人が移動を命じられました。
ここはかつて第1次大戦でドイツ軍捕虜2000人がマラリアで全員死んだ島でした。その後もここで民間が開発をしましたがすべて失敗し、放棄されてきた島でした。
この島は蛇以外の生き物は少なくヤシの木も少ないまさに「死の島」と言われるゆえんであります。
イギリス人はこの「死の島」へ日本兵を“地獄”に追いやるために移動させたのです。
島の施設はすべて日本軍の手で建設させられました。日本軍はあり合わせの道具と自前の食料を持って、桟橋、道路、倉庫から何から何まで作らされました。
雨期に吹きさらしの甲板に積まれて到着した設営隊は、後続部隊のために掘立小屋を建てながら、約束していたイギリス軍による食料を待っていましたが、島には何も届きませんでした。
日本兵たちの1日分の米は1合5勺にされ、全員が空腹と栄養失調になっていきました。
彼らは生きるためにあらゆる動植物が食料となるのか試され、毒以外の野草は取り尽くしていました。
蛇、サソリ、ムカデ、ナメクジまで貴重な栄養源だったのです。軍医部の報告では主食のカロリーは必要量の3分の1、タンパク質は16グラムに過ぎず、餓死寸前に至ったと書いています。
最重点で取り組んだ開墾から農産物自給が進められ、食糧の生産と採集が行われました。 そして、遂に蛇もムカデも取り尽くされて絶滅してしまいました。
8万人に餓えが迫った12月8日、イギリス軍の食糧5000トンが届いたのです。しかし、この食料は熱帯で半年も貯蔵され賞味期限どころかイギリス軍で廃棄するようなものを持って来て、しかもわざと日本の記念日である12月8日まで待たせておいて、この日に日本兵に“くれてやった”のです。
イギリス、オーストラリア軍の食料は3300~4200カロリーありましたが、日本兵はこの1食分を3食に分けて食べ、それでも今までの倍の量を食べることができたのです。
こういう過酷な状況の中でも日本兵は抵抗もなく、脱走もなく、餓死者も出さなかったのは奇跡であったといえます。命令系統が失われていたので混乱があってもおかしくありませんが、日本兵の秩序は乱れませんでした。白人が「死の島」と言った無人のジャングルを切り開き、飢餓に迫られながらも、しのいだ日本兵。あらゆるものを利用して道路、農地、井戸、貯水池、宿舎、倉庫、司令部、病院まで建設しました。塩、みそ、しょうゆ、石鹸、履物まで工夫して作っていたのです。
ついにはイギリス軍の陰険な策謀は見事に裏切られたのです。世界のどの軍隊であろうとも、敗戦後の極限状態に追い詰められながら落胆し、意気消沈し、絶望に自暴自棄になる状況でも、これだけの統率を取ることができた日本兵は天皇の軍隊、皇軍としての誇りであったといえるでしょう。
昭和20年、戦局悪化の一途の中、我が国の民需が枯渇し、「欲しがりません、勝つまでは」のもと、食べざかりの子供達までお国のためにあらゆることを我慢し、わずかな配給に列をつくって日本国民全体が飢えていた時、敵捕虜に対しての待遇は日本の将兵と同じであったのです。
敵の将兵に妻子に与える2倍の食料を供給し続けたのです。
日本国民が極度の窮乏の中でも戦時国際法は固く守られていたのです。これこそ白人社会ではあり得ない日本精神であり、武士道でもあるのです。
このことはなぜか戦後隠されたままです。
同胞を殺した憎き敵に対しても、我が先人たちの高潔なる”誠”の行いを日本人は広く知り、誇ってもいいのではないでしょうか。・・・
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