富士山の別名を芙蓉峰と言います。
古くは往々にして蓮(ハス)の花を意味しました。美女の形容としても多用された表現です。その優美な風貌は日本国内のみならず日本国外でも日本の象徴として広く知られています。
富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言われ、特に富士山の神霊として考えられている浅間大神と木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)を主祭神とするのが浅間神社であり全国に存在します。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っています。
世界文化遺産に登録された富士山は日本人にとって特別なものです。
その一方で、富士山が日本人の生活のため果たしてきたもうひとつの役割も忘れてはなりません。今でこそ人工衛星にその座を譲りましたが、昭和40年に運用を始めた山頂のレーダーは、太平洋から刻々と列島をうかがう台風や低気圧の姿をとらえ続け、。高度4千メートル近い地点で観測される気温や風速は天気を予報するうえで、貴重なデータとなりました。
![イメージ 2]()
明治中期、この富士山頂での観測に先鞭(せんべん)をつけた若き気象学者とその妻がいました。野中到(いたる)、チヨ夫妻です。
野中夫妻を題材とした作品で最も知られているのは新田次郎氏の小説『芙蓉の人』です。
新田次郎氏は、日本を代表する作家であり、昭和38年より富士山気象レーダー建設責任者となり、建設を成功させ、『国家の品格』『日本人の誇り』の著者藤原正彦氏の父として知られる。同時に気象庁で永年、気象観測の実務に携わり、富士山レーダーの建設では測器課長として現場の責任者でもあった。また、昭和7年から12年まで富士山測候所に勤務した経験もされています。作家デビュー以前に野中到氏本人にも会われています。それゆえ、富士山頂の冬の苛烈さの描写は鬼気せまるものがあるのです。高山病に苦しんだ野中夫妻の惨状がひしひしと伝わってくるのです。
野中氏は、筑前 国(福岡県)早良郡鳥飼村で黒田藩士野中勝良の長男として生まれた武士の子でした。
野中氏は日本に高層観測所がないことを憂い、私費で富士山頂に気象観測所を設置するため明治22年、東京大学予備門(後の第一高等学校、東京大学教養学部)を中退して気象学を学んだ。当時、3776mという高地で冬季の気象観測をしている国はなかったのです。
最初は批判的であった東京控訴院(現東京高等裁判所)判事である到の父、勝良は、中央気象台技師和田雄治と東京天文台長の寺尾博士から、世界において富士山より高いところにある高層観測所は二山だけである。しかも夏期しか観測していなかったのです。
「もし、富士山で冬期の気象観測に成功したら、それこそ世界記録を作ることであり、国威を発揚することである」
と聞いてから積極的に応援するようになった。資金捻出のため、女中と書生を置くことをやめ、福岡県の旧宅を売り払った。明治25年に福岡藩喜多流能楽師の娘チヨ結婚された野中氏と、妻、チヨとの間には2歳の娘園子がいた。チヨは、野中氏が御殿場に滞在して観測所建設の指揮を執ると姑の反対を押し切って、御殿場に向かい会計を担当した。野中氏の計画は綿密であったがチヨの見るところ食料品や衣料品の準備に甘さがあると感じた。チヨは御殿場でそれらの調達を担当しながら、ひそかに決意をする。自分も夫と共に富士山頂で越冬観測をしようと決意されたのです。
「御国(みくに)の為と聞くならば…兎(と)にも角(かく)にも登山せばや」チヨは日記にこう決意を書いている。
御殿場の野中氏の宿舎である旅館の主人佐藤與平治は人員の手配や物品の調達など親身に応援してくれた。チヨは與平治にいう。
「おじいさん…私は主人の後を追って富士山へ登るつもりです。主人を一人で山の中に置くようなことはできません」舅、姑は勿論、夫も許さないのは自明のことである。しかしとうとう彼女は婚家と実家の親たちを押し切ってしまう。福岡の実家で防寒具を整え、山で足腰を鍛える。
しかし、2人とも山は素人でした。氷点下20度以下の寒さや強風の中でともに倒れ、心配して登ってきた慰問隊にようやく救出される。それでも10月から12月まで82日間も観測を続けた。やがて山頂に国の観測所が造られ、通年観測が行われるきっかけになったのです。
![イメージ 3]()
日本人ならば、「御国(みくに)の為と聞くならば…兎(と)にも角(かく)にも登山せばや」・・・
野中夫妻の精神、心意気を「芙蓉峰」を見る時、少しでも思い出して欲しい・・・
古くは往々にして蓮(ハス)の花を意味しました。美女の形容としても多用された表現です。その優美な風貌は日本国内のみならず日本国外でも日本の象徴として広く知られています。
富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言われ、特に富士山の神霊として考えられている浅間大神と木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)を主祭神とするのが浅間神社であり全国に存在します。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っています。
世界文化遺産に登録された富士山は日本人にとって特別なものです。
その一方で、富士山が日本人の生活のため果たしてきたもうひとつの役割も忘れてはなりません。今でこそ人工衛星にその座を譲りましたが、昭和40年に運用を始めた山頂のレーダーは、太平洋から刻々と列島をうかがう台風や低気圧の姿をとらえ続け、。高度4千メートル近い地点で観測される気温や風速は天気を予報するうえで、貴重なデータとなりました。
野中到(いたる)チヨ夫妻
明治中期、この富士山頂での観測に先鞭(せんべん)をつけた若き気象学者とその妻がいました。野中到(いたる)、チヨ夫妻です。
野中夫妻を題材とした作品で最も知られているのは新田次郎氏の小説『芙蓉の人』です。
新田次郎氏は、日本を代表する作家であり、昭和38年より富士山気象レーダー建設責任者となり、建設を成功させ、『国家の品格』『日本人の誇り』の著者藤原正彦氏の父として知られる。同時に気象庁で永年、気象観測の実務に携わり、富士山レーダーの建設では測器課長として現場の責任者でもあった。また、昭和7年から12年まで富士山測候所に勤務した経験もされています。作家デビュー以前に野中到氏本人にも会われています。それゆえ、富士山頂の冬の苛烈さの描写は鬼気せまるものがあるのです。高山病に苦しんだ野中夫妻の惨状がひしひしと伝わってくるのです。
野中氏は、筑前 国(福岡県)早良郡鳥飼村で黒田藩士野中勝良の長男として生まれた武士の子でした。
野中氏は日本に高層観測所がないことを憂い、私費で富士山頂に気象観測所を設置するため明治22年、東京大学予備門(後の第一高等学校、東京大学教養学部)を中退して気象学を学んだ。当時、3776mという高地で冬季の気象観測をしている国はなかったのです。
最初は批判的であった東京控訴院(現東京高等裁判所)判事である到の父、勝良は、中央気象台技師和田雄治と東京天文台長の寺尾博士から、世界において富士山より高いところにある高層観測所は二山だけである。しかも夏期しか観測していなかったのです。
「もし、富士山で冬期の気象観測に成功したら、それこそ世界記録を作ることであり、国威を発揚することである」
と聞いてから積極的に応援するようになった。資金捻出のため、女中と書生を置くことをやめ、福岡県の旧宅を売り払った。明治25年に福岡藩喜多流能楽師の娘チヨ結婚された野中氏と、妻、チヨとの間には2歳の娘園子がいた。チヨは、野中氏が御殿場に滞在して観測所建設の指揮を執ると姑の反対を押し切って、御殿場に向かい会計を担当した。野中氏の計画は綿密であったがチヨの見るところ食料品や衣料品の準備に甘さがあると感じた。チヨは御殿場でそれらの調達を担当しながら、ひそかに決意をする。自分も夫と共に富士山頂で越冬観測をしようと決意されたのです。
「御国(みくに)の為と聞くならば…兎(と)にも角(かく)にも登山せばや」チヨは日記にこう決意を書いている。
御殿場の野中氏の宿舎である旅館の主人佐藤與平治は人員の手配や物品の調達など親身に応援してくれた。チヨは與平治にいう。
「おじいさん…私は主人の後を追って富士山へ登るつもりです。主人を一人で山の中に置くようなことはできません」舅、姑は勿論、夫も許さないのは自明のことである。しかしとうとう彼女は婚家と実家の親たちを押し切ってしまう。福岡の実家で防寒具を整え、山で足腰を鍛える。
しかし、2人とも山は素人でした。氷点下20度以下の寒さや強風の中でともに倒れ、心配して登ってきた慰問隊にようやく救出される。それでも10月から12月まで82日間も観測を続けた。やがて山頂に国の観測所が造られ、通年観測が行われるきっかけになったのです。
野中観測所
穏やかに見える富士山も、命がけでこの山と取り組んだ人々の歴史を秘めています。そして時には人を寄せつけないようなむき出しの荒々しさも見せます。「芙蓉の人」の著者、新田次郎さんは、あとがきでこう述べておられます。
「野中千代子は明治の女の代表であった。新しい日本を背負って立つ健気な女性であった。封建社会の殻を破って日本女性此処にあり、と、その存在を世界に示した最初の女性は、野中千代子ではなかったろうか」と・・・
野中氏や勝良氏は、明治という時代を象徴する人物であると同時に誇りに思います。息子は自らの夢のために一筋に進み、父は私財をなげうち、息子の夢であり、世界最初の高層観測所という名誉のために、御国の為に、見返りを求めずに打ち込む。この初々しい国家を自分たちが担っているのだ、という気概がこの父子に満ち、それに従う妻がいる。野中夫妻の偉業は日清戦争と同時代です。
後年、野中氏は御殿場馬車鉄道(ごてんばばしゃてつどう)は、かつて静岡県駿東郡御厨町(現・御殿場市)から同郡須走村(現・小山町)を経て山梨県南都留郡中野村(現・山中湖村)に至る馬車鉄道を運営していた鉄道事業者(株式会社)をも一時期経営されていました。
野中氏は昭和30年、チヨ夫人は大正12年に亡くなりました。大きな足跡を遺して・・・
何という馬力、行動力でしょう。
明治の人々は己がやらなくてはこの国家はどうなる、という気負いと明るさ、強さがあったと筆者思います。
チヨ夫人が現代の女性なら
「主人が富士山に行くのは自由です。でも、私は私のやりたいことがありますから」
というであろう。あるいは母として野中家の主婦としてこういうであろう。
「冬の富士山に一人でこもるなどとんでもない。娘や私はどうなるのです。もっと夫として責任を感じてください」と罵るでありましょう。
「野中千代子は明治の女の代表であった。新しい日本を背負って立つ健気な女性であった。封建社会の殻を破って日本女性此処にあり、と、その存在を世界に示した最初の女性は、野中千代子ではなかったろうか」と・・・
野中氏や勝良氏は、明治という時代を象徴する人物であると同時に誇りに思います。息子は自らの夢のために一筋に進み、父は私財をなげうち、息子の夢であり、世界最初の高層観測所という名誉のために、御国の為に、見返りを求めずに打ち込む。この初々しい国家を自分たちが担っているのだ、という気概がこの父子に満ち、それに従う妻がいる。野中夫妻の偉業は日清戦争と同時代です。
後年、野中氏は御殿場馬車鉄道(ごてんばばしゃてつどう)は、かつて静岡県駿東郡御厨町(現・御殿場市)から同郡須走村(現・小山町)を経て山梨県南都留郡中野村(現・山中湖村)に至る馬車鉄道を運営していた鉄道事業者(株式会社)をも一時期経営されていました。
野中氏は昭和30年、チヨ夫人は大正12年に亡くなりました。大きな足跡を遺して・・・
何という馬力、行動力でしょう。
明治の人々は己がやらなくてはこの国家はどうなる、という気負いと明るさ、強さがあったと筆者思います。
チヨ夫人が現代の女性なら
「主人が富士山に行くのは自由です。でも、私は私のやりたいことがありますから」
というであろう。あるいは母として野中家の主婦としてこういうであろう。
「冬の富士山に一人でこもるなどとんでもない。娘や私はどうなるのです。もっと夫として責任を感じてください」と罵るでありましょう。
日本人ならば、「御国(みくに)の為と聞くならば…兎(と)にも角(かく)にも登山せばや」・・・
野中夫妻の精神、心意気を「芙蓉峰」を見る時、少しでも思い出して欲しい・・・