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[転載]両陛下、大阪・豊中で緒方洪庵の資料ご覧に

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大阪大学豊中キャンパスに行幸啓あそばされ、「適塾」に関する資料をご覧あそばされる天皇、皇后両陛下 御尊影=25日午前、大阪府豊中市








君が代




謹んでお伝えいたします。


大阪行幸啓をなされている畏くも天皇、皇后両陛下におかせられましては、25日、豊中市の大阪大学会館で適塾記念センターをご覧に。江戸時代の蘭医学者、緒方洪庵(1810~1863年)が開いた「適塾」の資料をご覧あそばされた。
 畏くも両陛下は、福沢諭吉をはじめ日本の近代化に貢献した多くの人々を育てた洪庵の教育について説明をお受けになられ、大阪でコレラが流行した際、洪庵が数日間で治療書を書いたという説明を聞かれた皇后陛下は「数日で?」と驚かれていた。
 同センターは、大阪にある適塾の建物や関連資料を所有・管理する大阪大が平成23年に設立。両陛下は同日午後、還幸啓あそばされた。


















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緒方洪庵肖像

緒方 洪庵(おがた こうあん)、文化7年7月14日(1810年8月13日) - 文久3年6月10日(1863年7月25日))は江戸時代後期の武士(備中(岡山)足守藩士)、医師、蘭学者である。大坂に適塾を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し日本の近代医学の祖といわれています。
適塾(てきじゅく)は、緒方洪庵が大坂・船場に開いた蘭学の私塾。正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)。
幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く輩出し、現在の大阪大学の淵源でもあります。

門下生の自筆による姓名録が残っており、弘化元年から文久2年までの636名の姓名・入門年・出身地が記載されている。現在の都道府県で出身地を分けると、山口県が56名で最も多く、洪庵の出身地の岡山県が46名で2番目。その他、大阪府は19名、鹿児島県は7名となっている。また、青森県と沖縄県を除いて、北は北海道から南は鹿児島県まで全国から入門しています。 



主な門下生


※ 石阪惟寛
(陸軍軍医総監)

※ 大鳥圭介(蝦夷共和国の陸軍奉行。明治後学習院院長。駐清公使。男爵)
  ※ 大村益次郎(「村田良庵」と言う名で入塾。日本近代陸軍を創設)  
※ 佐野常民(日本赤十字社初代総裁。伯爵)
※ 高松凌雲(箱館戦争の際の蝦夷政府軍の病院長。)
※ 武田斐三郎
※ 手塚良仙(漫画家・手塚治虫の曽祖父)
※ 長与専斎
※ 橋本左内(若くして安政の大獄で刑死)

※ 福沢諭吉(慶應義塾の創立者)

緒方 洪庵の偉業は多くの書籍等で紹介されていますので、ここでは割愛させていただきます。
緒方 洪庵の偉業を支え門下生から、慈母のようにしたわれたのが八重夫人です。


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緒方八重夫人 胸像 



八重夫人は、夫との間に七男六女(うち四人は早世)を儲け、育児にいそしむ一方で洪庵を蔭から支えた良妻でした。洪庵の事業のため実家からの仕送りを工面したり、若く血気のはやる塾生たちの面倒を嫌がらずに見たりして、多くの人々から慕われた。後に福沢諭吉は「私のお母っさんのような人」「非常に豪い御方であった。」と回想し、佐野常民は、若き日にうけた恩義が忘れられず八重夫人の墓碑銘を書いている。洪庵の死後は彼の肖像画を毎日拝み遺児の養育に力を尽くした。八重夫人の葬儀には、門下生から政府関係者、業者など朝野の名士や一般人が2000人ほど参列し、葬列は先頭が日本橋に差し掛かっても、八重夫人の棺は、2.5km離れた北浜の自宅から出ていなかったと言い伝えられています。
後年、福澤翁が洪庵、八重夫人の墓参に訪れた時に、福澤翁の門下生を制して、「お墓の掃除」は私がするべきことと語っています。

洪庵夫妻の存在なくして近代日本の発展はなかったと言っても過言ではありません。





天皇陛下、皇后陛下はじめ、皇族方がいつまでもお健やかであられることを、臣民の一人として祈念します。


尊 彌榮 彌榮 彌榮

日本國民(やまと民族)は皇室と共に・・・・

天皇陛下、皇后陛下 萬歳 萬歳 萬歳


転載元: 美し国(うましくに)


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