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[転載]天皇陛下は、68歳の誕生日に先立つ記者会見の席で、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀(しょくにほんぎ)に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」

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平成13年(2001年)12月23日、
天皇陛下は、68歳の誕生日に先立つ記者会見の席で、
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀(しょくにほんぎ)に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」
と述べられた。

しかし、これは「韓国人の血を引いている」ということにはならない。

なぜならば、百済の「武寧王」も、
その父の「東城王」も、
韓国人ではなく、日本から朝鮮半島に渡って行った人物だからだ。

更に、日本から朝鮮半島に渡って行った
「武寧王」の子「純陀太子」は、
日本に人質として来て、その子孫はそのまま日本に住み着いた。


4世紀頃(391年、倭が、海を越えて襲来し、
百済や新羅を破って服属させてしまった
「広開土王碑」)から7世紀(白村江の戦い)まで、
朝鮮半島は九州などと同様に
倭国の一部だったという時代背景を忘れてはならない。
百済の文斤王がなくなり、
天皇は昆支王の五人の子の中で、
二番目の末多王が、幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。
 
親しく頭を撫でねんごろに戒めて、
その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵五百人を遣わして
国に送り届けた。これが東城王である。…
『日本書紀』雄略紀
――――
(廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。…)
――――


こうして479年、
東城王(末多王)が百済王に即位したが、
この即位も日本(天皇)によって決められたことが判る。

『日本書紀』武烈四年条(502年)には、
この東城王(末多王)の暴虐が記され、
武寧王即位が記されている。

――――
「是歳、百済の末多王、無道して、百姓に暴虐す。国人、遂に除てて、嶋王を立つ。是を武寧王とす。」
――――

こうして、百済王に「武寧王」が即位したのだが、
「武寧王」も九州(佐賀県)生れの倭人だった。

このとき百済王に即位した九州生れの
「武寧王」の約2百年後の子孫が
和乙継(やまとのおとつぐ)で、
その娘が高野新笠で、その子供が
桓武天皇(在位781~806年)となったのだ。
 

663年、倭国は、
「白村江の戦い」で、
唐・新羅の連合軍に敗れ、
朝鮮半島に有していた勢力圏を失ってしまった。

百済王族は
日本列島に亡命し、それ以降は大和朝廷の単純な手下となった。

桓武天皇の在位期間(781~806年)、
桓武天皇の命令を受けた百済王の子孫たちは、
東北地方(陸奥)の征服を何度も試みたが、大惨敗を繰り返した。



つまり、百済というのは
昔から日本(倭国)の一地方であり、
百済王は、天皇によって決められ、
日本(九州など)生れの「東城王(末多王)」や
「武寧王」などが日本(九州など)から
朝鮮半島に渡って行って即位していた。

日本に戻って来た
武寧王の子「純陀太子」以下の子孫は、
そのままずっと日本に住み着いた。

武寧王(日本人)の
約2百年後の子孫の一人が
和乙継で、その娘の高野新笠が
桓武天皇の生母だったということ。

―――――
★現天皇のゆかり発言で
有名になった桓武天皇の母親の高野新笠の系図

武寧王[461年日本生まれ第25代百済王(在位501-523年)]
純陀太子  在日1世 (日本に人質に)
斯我君    在日2世
法師君    在日3世
雄蘇利紀君 在日4世
和史宇奈羅 在日5世 (和氏に改名して日本に帰化)
和史粟勝   在日6世
和史浄足   在日7世
和史武助   在日8世
和史乙継   在日9世(娘を天皇家に嫁がせて高野姓を賜る)
高野朝臣新笠 在日10世―桓武天皇[第50代天皇(在位781-806年)]

・・・つまり桓武天皇の母親の高野新笠は
10代前に渡来し、
6代前に日本に帰化した百済系10世なのです。
 
彼女の百済系の割合は
1/(2^10)=0.00098。
パーセントにすると0.098%となります。
逆に日本系の割合は99.902%で、
血筋から見ても帰化している事から見ても正真正銘の日本人です。
ましてや125代の今上天皇との関係は
「0」と言って差し支えありません。
また「百済≠韓国」である事も強調しておきます。
 
さらに「武寧王の父の東城王は
日本(倭)からやって来た」と
韓国の古文書に書かれている事も付け加えておきます。
そして桓武天皇が即位したのは781年・・・
つまり660年百済滅亡の121年後なのです。
百済の政治的な関わりは「0」です。

だからこそ「ゆかり」というリップサービスが出たのでしょう。
単なる「情緒」の世界ですから。


★一方、高麗王家の末期の7代の后は、
7人ともモンゴル王家の王女でした。
 
■7世代に渡り、モンゴル人との結婚を強制された高麗王の血統。
交配3代目 モンゴル人含有率 87.5%
交配5代目 モンゴル人含有率 96.875%
交配7代目 モンゴル人含有率 99.22875%

・・・高麗王は正真正銘モンゴル人なのです!

※血だけではなく、
名前(イジリブカ、ブダシリ等)、
服、髪型(弁髪)・・・全てがモンゴル風でした。

★さらに李氏朝鮮建国の李成桂の父親は、
李urusu-ubaという名前の満州人でした。

 
 
百済王氏
百済王(くだらのこにきし)氏は、
百済最後の王である
義慈王の子である善光を始祖とする日本氏族
持統朝に百済王の氏姓を賜与された。
 
氏として「百済」を称する氏族は複数ある
(百済朝臣、百済公、百済連、百済宿禰)が、
王という特殊なの示すとおり、
かつての百済を象徴する存在であったと思われる。
 
また延暦9年(790年菅野朝臣の改姓上表で、
当事者である菅野真道だけでな
百済王仁貞らが後見者然と名を連ねていることより、
百済系渡来氏族の宗家的地位にあったことが知られる。
 
百済王氏の本拠地は当初難波にあったが、
その後
北河内交野郡中宮郷(現・大阪府枚方市中宮)に本拠を移し、
この地に百済王の祀廟と百済寺を建立した。
百済寺は中世に焼失したが、
 
百済最後の国王義慈王
倭国と同盟し、
その王子 豊璋王と禅広王(善光王)を人質として倭国に献上した。
 
しかし、
660年百済はの進攻によってあっけなく滅び、
百済王室は唐の都に連行された。
 
百済復興のため倭国から朝鮮半島に戻った豊璋王も
白村江の戦いに敗れ、
高句麗に亡命するも、やがて唐に捕らえられ流刑となったため、
 
日本に残った禅光王が
百済王族の血統を伝えることとなった。
 
奈良時代末期には
俊哲陸奥鎮守将軍・征夷副使などに任じられ、
武鏡は出羽守となるなど、
敬福以来東北地方の経営と征夷事業に関わり、
平安時代中期まで中級貴族として存続した。
 
平安時代初期には、
百済系渡来氏族の和氏出身であったため
 
天皇外戚とみなされ厚遇を受けた。
 
一族の娘を桓武天皇嵯峨天皇らの後宮宮人とし、
天皇と私的なつながりを結んで繁栄を得た。
 
本貫地河内国交野への
天皇遊猟の記事は桓武朝以降、国史に多数見られる。
 
百済王神社の旧神主家である
三松氏は百済王氏の後裔を称した。
 
なお、
 
俊哲が坂上田村麻呂の副将軍として
日高見国へ遠征したことから、
百済王氏の一部かその縁者が北上盆地に定住し、
岩手県南部各地に
現在でも百済姓を名乗る者が散見される。
全体としては近畿から福岡にかけての瀬戸内海沿岸に多い。
 
 
 
 
 
 
 

転載元: RCボトル潜水艦/RC潜水艦/RC艦艇/水生ロボット


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