「 喜捨函 ( きしゃばこ ) 」を積んだ荷車を引く平岩幸吉
ボランティア(volunteer) の語の原義は志願兵を意味し、歴史的には騎士団や十字軍などの宗教的意味を持つ団体にまで遡ることができる。語源はラテン語のVolo(ウォロ、英語のwillの語源)志願者です。英語圏では、現在も本来の語義どおり志願兵あるいは義勇兵の意味でもこの語が使われている。
ボランティア活動の原則として挙げられる要素は一般に自発性、無償性、利他性、先駆性の4つである。1980年代以降、無償性の原則に関して「無償」の範囲をより柔軟に考えることによって実費の弁済や一定の謝礼を受ける「有償」ボランティアが出現し、受け入れられてきているのが現状です。
しかし、ボランティア活動が既存の社会システム、行政システムに存在しない機能を創造的な自由な発想で補完するという役割を担うことから発生したものです。
わが国のボランティアは明治まで遡り、冒頭画像の平岩幸吉は「ボランティア活動の父」と呼ばれています。
平岩幸吉(ひらいわこうきち)は、安政三年(一八五六年)、江戸の日本橋で生まれました。裕福な家でしたが、幸吉が十三歳のとき、明治維新の激変で家はつぶれてしまいます。心が傷ついた幸吉少年は、学校にも行かずに、ぶらぶらと遊んで過ごしました。
そのため、二十三歳のとき、とうとう家から追い出されてしまいます。途方に暮れた幸吉は、知り合いを頼って栃木町(とちぎまち)(現在の栃木市)にやって来ますが、ここに来て心を入れ替えた幸吉は、懸命に働いて金来屋(かねきや)という料亭を巴波川(うずまがわ)の近くに開きます。
三十九歳になった幸吉はシカと結婚し、その子ども平八郎を養子として迎えます。今まで学問に縁遠かった幸吉は四十四歳のとき、久松義典(ひさまつよしのり)という人が開いている塾に入門します。ここで、慈悲(じひ)の心や社会救済を学びますが、このことが後に幸吉の生き方に強い影響を与えるようになったのです。
そのころの栃木町は、巴波川を使った舟運(しゅううん)でにぎわい、物資を運ぶ中心地でした。しかし、明治二十二年(一八八九年)に両毛鉄道(りょうもうてつどう)が開通すると、舟の利用が少なくなって町がさびれ、病気になっても医者に診てもらえない人や、一人暮らしの老人などの貧しい人が次第に増えていきます。
ある日、幸吉は貧しい身寄りのない老人と目の不自由な老人が、ぼんやりとたたずんでいるのに出くわしました。わけを聞くと、出かけている間に住んでいた長屋を取り壊されて、帰る家がないとのことでした。
そのころの幸吉は、救済団体をつくり困っている人たちを助けたいと思うようになっていました。その日も町の有力者を訪ねて基金集めをした帰りだったのです。
幸吉は二人の老人のために部屋を借りることにしたものの、二人の今後のことや準備中の救済団体のことを悩みながら歩いていました。そのとき、幸吉の頭のなかにパッとある考えがひらめきました。
「そうだ、お年寄りたちが安心して暮せる施設(老人ホーム)をつくろう」
幸吉は、沼和田町(ぬまわだちょう)で小さな家を借りることにしました。明治三十四年(一九〇一年)四月十五日のことです。これが日本で三番目の老人ホーム誕生となりました。そして、幸吉は自らが院長となって運営にあたりました。その後幸吉は、生活に困っている人たちにも、お金や品物、薬を配り始めました。
しかし、奉仕活動をするうちに、町の人たちから集めたお金はすぐになくなってしまいました。お金がないので老人が病気になっても、医者に診てもらうこともできません。
初めのうちは、喜んでお金を出してくれた町の人たちも、何度も幸吉が寄付を集めに行くうちに、次第に協力してくれなくなっていきました。
「人のお金をあてにして、あきれた人だ」
こんなことをいう町の人も出てきました。
そんなとき幸吉は、いらなくなったものをもらってお金にすること(廃品回収)を思い付きました。それなら協力してくれるだろうと考えたのです。
「困っている人を助けるために、いらないものをください」
幸吉は、わらじをすり減らして一軒一軒家を回りました。一生懸命に荷車を引いて歩いている幸吉の姿を見て、町の人たちは迷っていました。
「一人ではどうすることもできません。皆さんの力を貸してください」
幸吉は、雨の日もかっぱを着て歩きました。毎日毎日たった一人で暗くなるまで町じゅうを歩きました。
それからしばらくたち、幸吉の考えに賛成して品物を出してくれる人が、次第に増えてきました。みんなが喜んで品物を出してくれるようになったのです。
「ご苦労さまです」
町のあちこちでたくさんの人が笑顔で迎えてくれます。幸吉は本当にうれしく思いました。
それから一〇年、幸吉は休まずに荷車を引き続けました。五十三歳のときに体の調子が悪くなって道端(みちばた)で何度も倒れそうになりましたが、それでも休まずに廃品回収を続けました。
しかし、明治四十三年(一九一〇年)六月、長年の無理がたたって脳出血で亡くなってしまいます。お葬式には、幸吉を慕(した)う人が彼の死を悼(いた)み、暑い夏の日にもかかわらず焼香(しょうこう)する列が長く続きました。
幸吉が亡くなってからは、息子の平八郎が老人ホームの運営のために頑張りました。こうして運営が続けられた施設は、今も栃木市梓町(あずさまち)に栃木老人ホーム「あずさの里」として残っていて、一〇〇人ものお年寄りが楽しく暮らしています。
また幸吉は、栃木婦人協会を結成し、高齢者の世話など本格的なボランティア活動の域を広げていきました。
病人や障害者、生活に困っている人の救済、日露戦争当時は出征兵士の残された家族の世話、災害地への物資の援助、義援金の寄付など多岐に及びます。
また、女史刑務所を出所した女性の自立を支援、服役中の受刑者の乳児の世話までも行いました。このことが後の更生保護法人・栃木明徳会(同市神田町)の設立に繋がっていきました。
当時の栃木は街全体にやっと電灯が普及した頃でした。
現在ならまだしも、幸吉の活動力はどこからきたのでしょうか?
幸吉の志の高さはもちろんのこと、すべての人は、同じ人間として生きる権利があるとの信念、人権感覚に敬服します。
わが国には肇国以来、「掩八紘而爲宇」(あめのしたをおおひていえとなさむ、またよろしからずや)の精神が息づいています。
絵本作家の出雲井晶氏は、「天地四方、八紘にすむすべてのものが、一つ屋根の下に大家族のように仲良くくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか」と解説されています。
幸吉の崇高な精神はまさに「掩八紘而爲宇」だったのです。
今正に、現世に生きる我々日本人に求められているのは、平岩幸吉の精神であり、
「掩八紘而爲宇」の精神ではないでしょうか?
ボランティア活動の原則として挙げられる要素は一般に自発性、無償性、利他性、先駆性の4つである。1980年代以降、無償性の原則に関して「無償」の範囲をより柔軟に考えることによって実費の弁済や一定の謝礼を受ける「有償」ボランティアが出現し、受け入れられてきているのが現状です。
しかし、ボランティア活動が既存の社会システム、行政システムに存在しない機能を創造的な自由な発想で補完するという役割を担うことから発生したものです。
わが国のボランティアは明治まで遡り、冒頭画像の平岩幸吉は「ボランティア活動の父」と呼ばれています。
平岩幸吉(ひらいわこうきち)は、安政三年(一八五六年)、江戸の日本橋で生まれました。裕福な家でしたが、幸吉が十三歳のとき、明治維新の激変で家はつぶれてしまいます。心が傷ついた幸吉少年は、学校にも行かずに、ぶらぶらと遊んで過ごしました。
そのため、二十三歳のとき、とうとう家から追い出されてしまいます。途方に暮れた幸吉は、知り合いを頼って栃木町(とちぎまち)(現在の栃木市)にやって来ますが、ここに来て心を入れ替えた幸吉は、懸命に働いて金来屋(かねきや)という料亭を巴波川(うずまがわ)の近くに開きます。
三十九歳になった幸吉はシカと結婚し、その子ども平八郎を養子として迎えます。今まで学問に縁遠かった幸吉は四十四歳のとき、久松義典(ひさまつよしのり)という人が開いている塾に入門します。ここで、慈悲(じひ)の心や社会救済を学びますが、このことが後に幸吉の生き方に強い影響を与えるようになったのです。
そのころの栃木町は、巴波川を使った舟運(しゅううん)でにぎわい、物資を運ぶ中心地でした。しかし、明治二十二年(一八八九年)に両毛鉄道(りょうもうてつどう)が開通すると、舟の利用が少なくなって町がさびれ、病気になっても医者に診てもらえない人や、一人暮らしの老人などの貧しい人が次第に増えていきます。
ある日、幸吉は貧しい身寄りのない老人と目の不自由な老人が、ぼんやりとたたずんでいるのに出くわしました。わけを聞くと、出かけている間に住んでいた長屋を取り壊されて、帰る家がないとのことでした。
そのころの幸吉は、救済団体をつくり困っている人たちを助けたいと思うようになっていました。その日も町の有力者を訪ねて基金集めをした帰りだったのです。
幸吉は二人の老人のために部屋を借りることにしたものの、二人の今後のことや準備中の救済団体のことを悩みながら歩いていました。そのとき、幸吉の頭のなかにパッとある考えがひらめきました。
「そうだ、お年寄りたちが安心して暮せる施設(老人ホーム)をつくろう」
幸吉は、沼和田町(ぬまわだちょう)で小さな家を借りることにしました。明治三十四年(一九〇一年)四月十五日のことです。これが日本で三番目の老人ホーム誕生となりました。そして、幸吉は自らが院長となって運営にあたりました。その後幸吉は、生活に困っている人たちにも、お金や品物、薬を配り始めました。
しかし、奉仕活動をするうちに、町の人たちから集めたお金はすぐになくなってしまいました。お金がないので老人が病気になっても、医者に診てもらうこともできません。
初めのうちは、喜んでお金を出してくれた町の人たちも、何度も幸吉が寄付を集めに行くうちに、次第に協力してくれなくなっていきました。
「人のお金をあてにして、あきれた人だ」
こんなことをいう町の人も出てきました。
そんなとき幸吉は、いらなくなったものをもらってお金にすること(廃品回収)を思い付きました。それなら協力してくれるだろうと考えたのです。
「困っている人を助けるために、いらないものをください」
幸吉は、わらじをすり減らして一軒一軒家を回りました。一生懸命に荷車を引いて歩いている幸吉の姿を見て、町の人たちは迷っていました。
「一人ではどうすることもできません。皆さんの力を貸してください」
幸吉は、雨の日もかっぱを着て歩きました。毎日毎日たった一人で暗くなるまで町じゅうを歩きました。
それからしばらくたち、幸吉の考えに賛成して品物を出してくれる人が、次第に増えてきました。みんなが喜んで品物を出してくれるようになったのです。
「ご苦労さまです」
町のあちこちでたくさんの人が笑顔で迎えてくれます。幸吉は本当にうれしく思いました。
それから一〇年、幸吉は休まずに荷車を引き続けました。五十三歳のときに体の調子が悪くなって道端(みちばた)で何度も倒れそうになりましたが、それでも休まずに廃品回収を続けました。
しかし、明治四十三年(一九一〇年)六月、長年の無理がたたって脳出血で亡くなってしまいます。お葬式には、幸吉を慕(した)う人が彼の死を悼(いた)み、暑い夏の日にもかかわらず焼香(しょうこう)する列が長く続きました。
幸吉が亡くなってからは、息子の平八郎が老人ホームの運営のために頑張りました。こうして運営が続けられた施設は、今も栃木市梓町(あずさまち)に栃木老人ホーム「あずさの里」として残っていて、一〇〇人ものお年寄りが楽しく暮らしています。
また幸吉は、栃木婦人協会を結成し、高齢者の世話など本格的なボランティア活動の域を広げていきました。
病人や障害者、生活に困っている人の救済、日露戦争当時は出征兵士の残された家族の世話、災害地への物資の援助、義援金の寄付など多岐に及びます。
また、女史刑務所を出所した女性の自立を支援、服役中の受刑者の乳児の世話までも行いました。このことが後の更生保護法人・栃木明徳会(同市神田町)の設立に繋がっていきました。
当時の栃木は街全体にやっと電灯が普及した頃でした。
現在ならまだしも、幸吉の活動力はどこからきたのでしょうか?
幸吉の志の高さはもちろんのこと、すべての人は、同じ人間として生きる権利があるとの信念、人権感覚に敬服します。
わが国には肇国以来、「掩八紘而爲宇」(あめのしたをおおひていえとなさむ、またよろしからずや)の精神が息づいています。
絵本作家の出雲井晶氏は、「天地四方、八紘にすむすべてのものが、一つ屋根の下に大家族のように仲良くくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか」と解説されています。
幸吉の崇高な精神はまさに「掩八紘而爲宇」だったのです。
今正に、現世に生きる我々日本人に求められているのは、平岩幸吉の精神であり、
「掩八紘而爲宇」の精神ではないでしょうか?
平岩幸吉 顕彰碑 渋沢栄一書(栃木市あじさい坂)