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1523年生まれのオランダ人、ヨハンネス・ストラダヌス(Johannes Stradanus)による、アメリゴ・ヴェスプッチとアメリカ大陸との遭遇の場面をイメージ的に描いた作品。Clik here to view.
拙稿、日韓併合への歩みを知る(四)では列強によるアジア進出について述べさせていただきました。
当時、西洋列強の白人たちは、西洋文明に染まらぬ民族を未開の野蛮人ぐらいにしか見ていなかったのです。
冒頭の画像は、アメリカ大陸発見を象徴的に現した一枚の絵です。
アメリカの大地は、男に支配されるべき裸の女として象徴化され、神の十字架と文明の利器を持ち文明の乗り物に乗ってやってきた左の西洋人の姿に驚く様は、まるで神に出会ったかのように右手をささげ、そのハンモッハクに座る姿は、なんら生産的なことをしていない者としてこの地の人々を表現しています。周囲には獣が徘徊し遠くの海岸では人間の下半身のようなものを火で焼いて食料にしている未開で野蛮な土地として描いています。
西洋文明こそこの野蛮を正し支配し正しき神の地とせねばならない、という当時の西洋白人の偏見と独り善がりな考え方を見ることができる典型的な絵画なのです。
本ブログの拙稿、日本がなぜ鉄砲を捨てたのか・・(上)でも記事としていますが、我国の歴史教育は15世紀を「大航海時代」と教えています。
しかし、実態は白人種による有色人種への暴力と収奪の歴史でした。西欧文明と出合う前、中央アメリカの人口は7千万人から9千万人あったと推定されていますが、スペイン人の侵入後、わずか1世紀の間に、350万人に激減したと見積もられます。またアフリカから奴隷として拉致された黒人は、3千万人から6千万人に及び、その3分の2が航海途上で死亡して、大西洋に捨てられたといわれます。有色人種の犠牲者数は、世界大戦の死亡者数さえ上回ります。暴力と収奪によって、西欧文明は、大陸間の支配構造を作り出したのです。
「近代世界システム」は、1450年頃から1540年頃までに形成されました。この支配体制は、西欧を中核とし、アジア・アフリカ・ラテンアメリカを半辺境または辺境とし、この構造の中で、近代資本主義が発達し、産業革命によって支配体制を完成させたのです。
外に向かって侵略と搾取をし続ける西欧諸国は、お互いの間でも戦争が絶えず、17世紀前半の三十年戦争(1618-48)は、キリスト教の新教国・旧教国が参戦して大戦争となり、ドイツの人口が3分の1になるという悲惨さでした。
近代世界システムでは「戦争と平和」という観点から世界秩序が構想されました。この構想を最初に体系化したのは、オランダのグロチウスの著書『戦争と平和の法』(1625)でした。時まさに三十年戦争のさなかでした。この理論をもとにして、1648年にウェストファリア条約が結ばれました。以来、ヨーロッパでは、戦争を世界観の柱として国際関係が律せられることとなりました。これが現在に続く主権国家体制です。主権国家同士の戦争は、1480年から1950年までの460年間に278回にのぼります。約1年8ヶ月に1回の割合で戦争が起こっていた計算となります。
これら侵略的・攻撃的な西欧文明から自らの文明を守ることは、容易でなく、力には力で対抗して身を守らないと、虐殺あるいは支配されてしまいます。ラテン・アメリカでマヤ文明・アステカ文明などが滅ぼされ、アフリカやインドの有色人種が家畜のような奴隷労働をさせられたのは、力に対し自らを防衛する能力を欠いていたためでした。
15世紀から20世紀まで、世界を支配したのは、西洋近代文明の原理でした。すなわち、暴力と収奪に基づく対立と抗争の原理です。
キリスト教において博愛が及ぶのは、人間のみです。しかも異教徒は人間とみなさず、動物扱いでした。他の動物達は、「博愛」の対象にはならず、彼らは人間の所有物であるとの記述が、旧約聖書(創世記第一章、二十節から二十八節)にあります。
神は彼ら(人間)に仰せられた。
「生めよ。増えよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を支配せよ」
「生めよ。増えよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を支配せよ」
と・・・
この世に生きている動物達はすべて、神が人間のために造ったものであり、人間にはそれらを支配する権利が認められていると教義されています。
動物愛護史を紐解くと、キリスト教圏では、人間の身勝手な都合で正当化された動物虐待が長らく横行していた事実がわかります。「人間のため」という大義名分があれば、動物達をどう扱おうとキリスト教徒にとっては何の罪でもなかったのです。
しかも、キリスト教における「博愛」とは、同属の...つまりクリスチャンのみに適応される教義でした。
キリスト教では、「異教徒を残酷に殺せば殺すほど、喜ぶ」と言われ、旧約聖書では、血の生贄が存在します。
ですから、植民地での殺戮、収奪が当然のことのように行われたのです。
今日でもこれらに対する謝罪は行われていません。
また、それらは19世紀に至っても大して変わらなかった。世界各地の未開の地すなわち西洋文明に染まっていない地を支配し併合あるいは植民地とするのは当然のこととする時代であったのです。そして、それをなしうるのは「力」。それに抵抗できるのもまた「力」でした。
今日に至っても、「力」に抵抗できるのもまた「力」の構図は何ら変わっていません。
19世紀から20世紀の紛争はすべてこれらに淵源を発しています。
極東アジアの侵略に抵抗し、戦ったわが国を侵略国だと肯定する先進国の多くは、過去の大罪を覆い隠す為にわが国を批難し、すり替えているにすぎないのです。
「脱亜論」はアジア蔑視で、日本の朝鮮侵略の口実をつくったという反日派の説はほんとうでしようか。
欧米列強の植民地支配、侵略、搾取の背景を知ることなくして、アジアの歴史は前へ進まないように筆者は思うのです。
続く・・・
動物愛護史を紐解くと、キリスト教圏では、人間の身勝手な都合で正当化された動物虐待が長らく横行していた事実がわかります。「人間のため」という大義名分があれば、動物達をどう扱おうとキリスト教徒にとっては何の罪でもなかったのです。
しかも、キリスト教における「博愛」とは、同属の...つまりクリスチャンのみに適応される教義でした。
キリスト教では、「異教徒を残酷に殺せば殺すほど、喜ぶ」と言われ、旧約聖書では、血の生贄が存在します。
ですから、植民地での殺戮、収奪が当然のことのように行われたのです。
今日でもこれらに対する謝罪は行われていません。
また、それらは19世紀に至っても大して変わらなかった。世界各地の未開の地すなわち西洋文明に染まっていない地を支配し併合あるいは植民地とするのは当然のこととする時代であったのです。そして、それをなしうるのは「力」。それに抵抗できるのもまた「力」でした。
今日に至っても、「力」に抵抗できるのもまた「力」の構図は何ら変わっていません。
19世紀から20世紀の紛争はすべてこれらに淵源を発しています。
極東アジアの侵略に抵抗し、戦ったわが国を侵略国だと肯定する先進国の多くは、過去の大罪を覆い隠す為にわが国を批難し、すり替えているにすぎないのです。
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福澤諭吉翁Clik here to view.
「脱亜論」はアジア蔑視で、日本の朝鮮侵略の口実をつくったという反日派の説はほんとうでしようか。
「脱亜論」は、日本・清・朝鮮三国が協力して西洋列強の侵略に対抗しようとの日本の呼びかけに応じなかった清・朝鮮に対する絶望感をあらわすものだったのです。
一九世紀に入り、西洋列強の東アジア進出は熾烈を極めました。
特に、南下政策をとるロシアは、朝鮮半島に入ろうと機会をうかがっていた。福澤翁は、 「いま西洋が東洋に迫るそのありさまは、火事が燃え広がるのと同じである。この火事から日本という家を守るには、日本の家だけを石造りにすればすむというものではない。近隣に粗末な木造家屋があれば、類焼はまぬがれないからである」と述べている。
福澤翁は、「西洋列強の浸入から日本を防衛するには、日本が近代国家になるだけでは不十分である。隣りの朝鮮と清国も近代国家になってもらい、三国が力を合わせて西洋勢力に対抗していかねばならぬ」と考えていた。
これらは福澤翁のみならず、日本政府の考え方も、福沢の考え方と同じでした。日本政府は国の立場で、福澤翁は個人の立場で、朝鮮の開化派がすすめようとする近代化を援けたのです。
明治大帝は大日本帝国憲法発布の頃(明治22年)、西郷従道に対し言われたそうです。
「東経百二十度以東のシベリアに意義ある援助をし、日本海の安全を保ってこそ支那の領土保全が図られる」
と東亜保全に叡慮を述べられています。
大帝が仰せられたシベリアとは満州を意味します。
明治の政治家、軍人たちは、陛下の認識に沿って外交に対処し、身を処していったのです。
明治大帝は大日本帝国憲法発布の頃(明治22年)、西郷従道に対し言われたそうです。
「東経百二十度以東のシベリアに意義ある援助をし、日本海の安全を保ってこそ支那の領土保全が図られる」
と東亜保全に叡慮を述べられています。
大帝が仰せられたシベリアとは満州を意味します。
明治の政治家、軍人たちは、陛下の認識に沿って外交に対処し、身を処していったのです。
しかし、朝鮮を属国とみている清国は、朝鮮に日本の影響力が及ぶのを嫌い、朝鮮国内の守旧派と連携し、朝鮮の近代化政策を妨害したのです。
福澤翁は朝鮮の心ある改革派である金玉均や日本に留学した若い朝鮮人達を慶応義塾に受け入れて援けたが、朝鮮はその恩に報いることはなく、逆に改革派を弾圧、殺害したのです。
そうした妨害に絶望して福澤翁が書いたのが「脱亜論」でした。その後も福澤翁は半ば諦めながらも、朝鮮や清国の覚醒を期待し続けたのです。
そして、これらの真実を知らない、支那・朝鮮によってわが国は批難され続けているのです。
続く・・・