小野太三郎 翁(おのたさぶろう)
平成21年度末現在の社会福祉法人数は18,674法人(厚労省)ですが、わが国で社会福祉事業を個人として日本で最初に実践したのが石川県金沢市の小野太三郎翁です。
太三郎翁は24歳のとき、飢饉によって困窮した人々に自宅に開放するという自費での救護活動を始めました。そして、明治6年には「小野救養所」を開設し、目の不自由な人の受け入れを開始、明治12年にはあらゆる困窮者の救護活動を始めました。明治38年には卯辰山へ移転し、「小野慈善院」として活動を続け、生涯を社会福祉事業にささげました。
太三郎翁は24歳のとき、飢饉によって困窮した人々に自宅に開放するという自費での救護活動を始めました。そして、明治6年には「小野救養所」を開設し、目の不自由な人の受け入れを開始、明治12年にはあらゆる困窮者の救護活動を始めました。明治38年には卯辰山へ移転し、「小野慈善院」として活動を続け、生涯を社会福祉事業にささげました。
その志のはじまりは少年時代に遡ります。
小野太三郎翁 (おのたさぶろう ) が、母の使いで 近江町 ( おうみちょう ) 市場へ行った十一歳のときです。人だかりのなかに、大きな海亀がいました。近江町には人がたくさん集まるので、見せ物になっていたのです。
縁起 ( えんぎ ) のよい亀に自分もあやかりたいと、お金をあげる人、まんじゅうを 供 ( そな ) える人、お酒を飲まそうとする人、亀の周りには、次々と人々が集まってきます。
息苦しくなった太三郎翁が人だかりを抜け出たそのとき、かたわらに、じっとうずくまって、やせ細った手をさし出している老人に気付きました。
「あわれな老人に、何か食べる物をめぐんでください」
と、老人はぼそぼそとした声をかけてきました。さっきの亀にはお金がたくさん集まっていたけれど、この老人には声をかける人もなく、汚いからと足で 蹴 ( け ) る者すらいました。
「亀にお金を与える人がいても、この老人に与える人はいない。こんなおかしなことがあっていいのだろうか」
子どもの太三郎翁にはどうすることもできなかったのですが、この日太三郎翁は「大きくなったら、このような人たちを助ける仕事をしよう」と、心に固く決めました。
さて、十三歳で 加賀藩 ( かがはん ) に仕え、仕事を持つようなった太三郎翁ですが、翌年、重い目の病にかかり、一時視力を失います。そのころの太三郎翁は日常生活の不都合や将来への不安に苦しんでいました。その後、幸いにも目はよくなり仕事を続けることができましたが、体の不自由さがどれほどつらいものかを身をもって体験したのです。
元治 ( げんじ ) 元年(一八六四年)、太三郎翁が二十四歳のころ、加賀藩は来る年も来る年も 凶作 ( きょうさく ) に見まわれ、人々のなかには食べる物もなく、道にさまよう人、道ばたに倒れる人が次々と出てきました。太三郎翁は少年時代の気持ちを忘れず、 中堀川 ( なかほりかわ ) にあった自分の家を 空 ( あ ) けて、貧しい人々を住まわせます。また、明治二年(一八六九年)、今まで加賀藩が面倒を見てきた 卯辰山 ( うたつやま ) の 撫育所 ( ぶいくしょ ) (貧しい人たちの生活する施設)が閉じられて、行くところがなくて困っている人たちを自分の家へ温かく迎えました。
明治六年(一八七三年)、太三郎翁が三十三歳のころには、 木 ( き ) の 新保 ( しんぼ ) (現在の 金沢市本町 ( かなざわしほんまち ) )に一軒の家を買い、目の不自由な人ばかり二〇人を住まわせて世話をするようなります。このころから、不幸な人々を救おうとする太三郎翁の苦しい闘いが本格的に始まります。
縁起 ( えんぎ ) のよい亀に自分もあやかりたいと、お金をあげる人、まんじゅうを 供 ( そな ) える人、お酒を飲まそうとする人、亀の周りには、次々と人々が集まってきます。
息苦しくなった太三郎翁が人だかりを抜け出たそのとき、かたわらに、じっとうずくまって、やせ細った手をさし出している老人に気付きました。
「あわれな老人に、何か食べる物をめぐんでください」
と、老人はぼそぼそとした声をかけてきました。さっきの亀にはお金がたくさん集まっていたけれど、この老人には声をかける人もなく、汚いからと足で 蹴 ( け ) る者すらいました。
「亀にお金を与える人がいても、この老人に与える人はいない。こんなおかしなことがあっていいのだろうか」
子どもの太三郎翁にはどうすることもできなかったのですが、この日太三郎翁は「大きくなったら、このような人たちを助ける仕事をしよう」と、心に固く決めました。
さて、十三歳で 加賀藩 ( かがはん ) に仕え、仕事を持つようなった太三郎翁ですが、翌年、重い目の病にかかり、一時視力を失います。そのころの太三郎翁は日常生活の不都合や将来への不安に苦しんでいました。その後、幸いにも目はよくなり仕事を続けることができましたが、体の不自由さがどれほどつらいものかを身をもって体験したのです。
元治 ( げんじ ) 元年(一八六四年)、太三郎翁が二十四歳のころ、加賀藩は来る年も来る年も 凶作 ( きょうさく ) に見まわれ、人々のなかには食べる物もなく、道にさまよう人、道ばたに倒れる人が次々と出てきました。太三郎翁は少年時代の気持ちを忘れず、 中堀川 ( なかほりかわ ) にあった自分の家を 空 ( あ ) けて、貧しい人々を住まわせます。また、明治二年(一八六九年)、今まで加賀藩が面倒を見てきた 卯辰山 ( うたつやま ) の 撫育所 ( ぶいくしょ ) (貧しい人たちの生活する施設)が閉じられて、行くところがなくて困っている人たちを自分の家へ温かく迎えました。
明治六年(一八七三年)、太三郎翁が三十三歳のころには、 木 ( き ) の 新保 ( しんぼ ) (現在の 金沢市本町 ( かなざわしほんまち ) )に一軒の家を買い、目の不自由な人ばかり二〇人を住まわせて世話をするようなります。このころから、不幸な人々を救おうとする太三郎翁の苦しい闘いが本格的に始まります。
まず、この人たちには仕事がない。食べ物など生活費は太三郎翁が稼がなければなりません。自分の家で大切にしていた古道具を次々と売り払い、売る物がなくなると、今度は武士だった人の家から古着や家具、 調度品 ( ちょうどひん ) (日常使う身の回りの道具)を買い集め、農家の人たちに売りました。町や村へ菓子を売って歩くこともしたのですが、その生活費は大変な額になります。
太三郎翁はただ世話をしていたのではありません。働ける者には仕事を探し、若い人たちにソロバンを教え、字を学ばせました。健康な人には商品を売り歩いたり、人力車を引くなどの仕事を与えました。その利益は、将来その人が自立をするために貯金していたのです。
太三郎翁はただ世話をしていたのではありません。働ける者には仕事を探し、若い人たちにソロバンを教え、字を学ばせました。健康な人には商品を売り歩いたり、人力車を引くなどの仕事を与えました。その利益は、将来その人が自立をするために貯金していたのです。
太三郎翁は疲れ果て、夜になるといろいろなことを思います。
「みんなに人間として生きる希望を持ってもらうことが大切だ。私一人では限度がある。もっとたくさんの人たちの協力が必要なんだ。みんなにお願いしてみよう」
太三郎翁が、毎日毎日、血のにじむような苦労を続けていることを知っている人たちは、進んで協力を申し出ました。呉服屋、医者、床屋たちが、今でいうボランティアを買って出てくれたのです。そして、明治三十八年(一九〇五年)、卯辰山のふもとに財団法人「 小野慈善院 ( おのじぜんいん ) 」がつくられました。長い一生をこの仕事に注いできた太三郎翁の喜びは、どれほどであったでしょうか。
「みんなに人間として生きる希望を持ってもらうことが大切だ。私一人では限度がある。もっとたくさんの人たちの協力が必要なんだ。みんなにお願いしてみよう」
太三郎翁が、毎日毎日、血のにじむような苦労を続けていることを知っている人たちは、進んで協力を申し出ました。呉服屋、医者、床屋たちが、今でいうボランティアを買って出てくれたのです。そして、明治三十八年(一九〇五年)、卯辰山のふもとに財団法人「 小野慈善院 ( おのじぜんいん ) 」がつくられました。長い一生をこの仕事に注いできた太三郎翁の喜びは、どれほどであったでしょうか。
小野慈善院
それからも、太三郎翁は院長として、身寄りのない貧しい人たちのためにつくし、明治四十五年(一九一二年)七十二歳で亡くなります。
大正二年の東京朝日新聞は小野太三郎翁を上記画像のように伝えています。
一部を記載します。
金沢の名物は蓋し兼六園にあらず、御所落雁長生殿にあらず、況や巻鰤、やなぎ団子にあらずして、実に我が小野太三郎翁である、而して翁は一両年前故人となったが、其事業は炳乎して遺っているのである
僕は大聖寺附近の温泉地を辞して、将に東京に帰らんとするの午後、特に汽車を金沢に棄てて、そぼ降る雨の中を小野慈善院を訪うた、幾長橋の虹の如く架してある浅の川の右岸に沿うて溯ること少許、道は卯辰山臥竜山の麓にかかって、□崎□たる坂路を登ること町余、その登り詰めたところにある粗末な木造平屋建の数棟がすなわち小野慈善院である
時や既に午後四時を過ぎていたが、刺を通じて窪事務長に会い苦茗を啜りつつその来歴現況の一斑を聞いた、窪氏の語るところに拠れば、翁の慈善院は遠くその濫觴を今より五十年前即ち元治元年の飢饉に発するのだそうだが、屋舎を此処に新築して現今の形態を備うるに至ったのは明治三十八年県令を以て教育所取締規則を発布してからだという
ソレでそもそも小野翁とは奈何なる人物であったかと言うことになる、翁は天保十一年の生れ、嘉永五年歳十三にして藩公に仕え卒力小者組に入ったが、これより先二年歳十一の時某月某日金沢市安江町に放生亀があった、偶翁は―否十一歳の少年はである―其処を通り蒐ったが見れば衆人相群って放たるる亀を囲み雨の如くに銭を投じている、すると傍に一老翁あり、衣は破れてその体を掩わず、履は磨滅してその踵を露わしている、鬢は霜の如く、腰は弓の如く、大地に額づいて憐みを乞えども、人は亀にのみ厚くして誰一人としてこの窮余の老翁を顧みるものがない、これを見た少年太三郎は●然として人情の薄きに泣いたか泣かなかったかは知らないが、兎も角その天賦の同情素即ち慈善素を刺戟されたことが大だったと見えて、私かに我袂を探って巾着をあらためて見たが、折悪く一文半銭の持合せもない、この義にして勇ある美しい本能の衝動を満足せしむることが出来なかった彼は、撫然として涙を抑えつつ此処を去った―というのである、これが翁の慈善史を飾る第一頁だ、それまでの生立に就ては余り知られていない
軈て安政二年十六歳の彼は会々悪性の眼病に罹って殆どその明を失った、而して医療いたずらに効無きを知った彼は一日潔斎して市内野町明神に詣で其後祈願を続くること正に一百日、不思議や忽然として明を復した、当時明神の境内に坐頭座というものがあって、無慮三百人の瞽者盲者が相集り、鍼を習い破絃を弾いて纔にその日の生を保っていた、祈願の折々に少年太三郎は彼等の間に交ってその語るを聞けば、跛者聾者素より憐憫に値するに相違なけれども、未だ以て瞽者盲者の不幸に及ばざること遠しというにあった、すなわち彼はその得る所を挙げて商人某に託し利銀を以て毎年彼等に恵んだ―これ翁の慈善史を飾る第二頁、ソンナ人もあったかなァぐらいで読んでいては、後生の悪いことは請合である
社会福祉法人「陽風園」
「小野救養所」の経営方針は「飢えと寒さを訴える者には衣食を」「病気の者には医薬と診療を」「老人の庇護を」「幼児の教育を」「職業の斡旋を」などでした。また、授産事業として、陶器製造・機織(はたおり)・肥料造りなどを行っていました。このような経営方針は、現在の社会福祉事業の原形といえます。
慈善院は、その後、社会福祉法人「 陽風園 ( ) 」として入園者も一〇〇〇人を超え、職員四五〇人となり、わが国で最も古い社会福祉施設として全国的に知られるようになっています。
生涯をかけて貫き通した、翁の遺志、その仁愛のこころと強い意志は、建物や人が変わっても引き継がれています。
生涯をかけて貫き通した、翁の遺志、その仁愛のこころと強い意志は、建物や人が変わっても引き継がれています。