【正論】文芸批評家 新保祐司 「国民の憲法」考
「歴史の目」意識しての
改正こそ
2013.5.6
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130506/plc13050603060002-n1.htm
過日、国立公文書館で開催されていた平成25年春の特別展「近代国家日本の登場-公文書にみる明治」を見に行った。同公文書館、宮内庁宮内公文書館、外務省外交史料館の所蔵する明治時代の公文書、条約書、絵巻物などが展示されていて実に見応えがあった。
≪明治が息づく大日本帝国憲法≫
戊辰戦争のときの「錦の御旗の図」、明治天皇の即位の礼を描いた「御即位式絵図」から始まって、「明治天皇大喪儀絵巻物」で終わる展示を見て歩きながら、明治という偉大な時代の手触りを感じていた。それぞれ興味深く見たが、今日の憲法改正への機運の高まりもあって、特に大日本帝国憲法の前でしばらく佇(たたず)んでいた。ここに、幕末維新以来の日本の一つの到達点があり、日本人が西洋から多くを学びながらも自力で見事に作りあげた傑作があるのだという思いに打たれた。上諭(じょうゆ)、明治天皇の御名御璽(ぎょめいぎょじ)、年月日(明治22年2月11日)の後に、内閣総理大臣伯爵黒田清隆を筆頭に、枢密院議長伯爵伊藤博文、外務大臣伯爵大隈重信などの各大臣の名前が自筆で副署されている。まさに、これは「歴史」そのものであり、120年ほど前の公文書というには余(あま)りに生々しく「明治の精神」が息づいているようであった。
歴史的な文書を見ているというよりも、逆に歴史の方から見られているような強い感じに襲われた。それに比べて、会場の外に、所蔵文書の一つとして展示されていた現行憲法からは、そのような歴史の持っている重みのようなものはほとんど感じられなかった。「明治の精神」が自力で作りあげた気迫の憲法と「配給された」憲法との違いというものを目に見える形で実感したことであった。
憲法改正にあたって何よりも必要なのは、日本の歴史から見られているという意識の下で、改正作業を進めることであろう。
≪「数千億万」同胞の利害込め≫
まず憲法改正の発議要件を定めた96条を改正し、現行の衆参各院の「3分の2以上」から「過半数」に緩和するということになれば、ますますこの歴史感覚は重要になるのである。今日の日本の政治状況の中で憲法を改正するとなれば、「3分の2以上」というのが現実的ではないのは間違いなく、「過半数」にハードルを下げるのは当然であろう。しかし、そうなった場合、発議する国会議員と国民投票をする国民には、日本の歴史に見られているという歴史感覚を身につけていることが、絶対に必要になってくるのである。民俗学者の柳田国男は、『時代ト農政』(明治43年)の中で「国民の二分の一プラス一人の説は即(すなわ)ち多数説でありますけれど、我々(われわれ)は他の二分の一マイナス一人の利益を顧みぬというわけには行かぬのみならず、仮に万人ながら同一希望をもちましても、国家の生命は永遠でありますならば、予(あらかじ)め未
(いま)だ生まれて来ぬ数千億万人の利益をも考えねばなりませぬ。況(いわ)んや我々は既に土に帰したる数千億万人の同胞を持って居(お)りまして、その精霊もまた国運発展の事業の上に無限の利害の感を抱いて居るのであります」と
書いている。
憲法のような国家の根本を規定するものは、今現在この日本列島に住んでいる人間だけが決めていいものではない。「2分の1+1」の住民が、単に今日的「利益」の必要や現代的価値観によって、改正してはならない。何故(なぜ)なら「我々は既に土に帰したる数千億万人の同胞」の歴史に規制されているからである。改正を発議する「2分の1+1」の国会議員と賛成する「2分の1+1」の日本国民は、その考え方において日本の歴史と伝統を踏まえていることによってのみ、圧倒的多数の日本人であることができるのである。
≪五箇条の御誓文思わす前文を≫
日本の歴史と伝統に深く根差しているかどうかをはっきり示すのが、前文ということになろう。9条の改正というようなものは、もはや今日の安全保障上からいって当然のことであり、特に問題とするまでもない。今回の憲法改正の眼目は前文にある。現行憲法の前文がナンセンスなことは常識であり、今回の前文には格調の高さも必須である。その作成には「文人」も関与させるべきであろう。私は、改正される憲法の前文には「五箇条の御誓文」を想起する文言が必要だと考えている。大日本帝国憲法の淵源もこれにあるからである。昭和21年1月1日の詔書(国立公文書館に「新日本建設ニ関スル詔書」として所蔵されているもの)にも、「新年ヲ迎フルニ際シ明治天皇ノ五箇条ノ御誓文ノ御趣旨ニ則リ」とある。だから、改正憲法の前文では、五箇条の御誓文と大日本帝国憲法に言及する一方、現行憲法には敢えて触れず、改正憲法が明治維新(これはまた神武創業の想起であった)以来の歴史の王道に基づいていることを示すべきである。「国民の憲法」要綱にも投影されているそれは、憲法に正統性の軸を通すためにも必要なのである。
(しんぽ ゆうじ)
http://www.highschooltimes.jp/news/cat24/000106.html
http://www.geocities.co.jp/NeverLand-Mirai/5070/kindai/rikken.html