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台湾の「君が代少年」

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君が代少年の神話。

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 昭和10年(1935年)4月21日、台湾中北部を大地震が襲い、公学校三年生の男子生徒が倒壊した建物の下敷きになりました。少年は虫の息になりながらも、駆けつけてきた先生を見上げて国家「君が代」を歌い、そして静かに息を引き取りました。この少年は「君が代少年」と呼ばれ学校には少年の銅像が建てられました。

 この話は新聞に載り、戦前の教科書に使用されました。それは主に国語教育の普及を目的としていました。昭和17年(1942年)に内地の教科書に載り、翌年は朝鮮半島、台湾の教科書に採用されました。台湾の「君が代少年」は瀕死の状態でも台湾語を使わず「国語」を使ったからです。

 これは作り話かもしれない、と思っていましたが、作家の村上政彦氏が取材した記録の「君が代少年を探して」によると台湾の苗栗というところの徳坤 ( せん とくこん )君のことで、先生がお見舞いに来たときに「君が代」を歌ったようです。徳坤君は頭を負傷したので、意識が朦朧としており、先生が来たとき朝礼と勘違いして歌ったのではないかという説もあります。

 戦後、こうしたものは皇民化教育といって否定的に捉えがちですが、国家の中で「国語」を普及させるのは当たり前の話ですし、台湾での国語の普及についていえば、台湾には多くの民族があり、民族同士で言葉が通じないので、日本語を共通語にすることでコミュニケーションが取れるようになっています。これは明治維新の時の日本でも同じで、方言同士ではコミュニケーションがとりにくく、「国語」を定めて意思疎通しやすくなっています。さらに台湾では近代化に向かうために必要な日本語の文献が読めるようになり、知的水準が向上しています。

 楊 素秋さん著「日本人はとても素敵だった」によると、君が代少年のことは当時の日本人(台湾人)が「公」というものを強く意識していた証左と述べています。台湾では学校の先生が黒板に「公」という字を大きく書いて「私」という字を小さく書く。これが国民の誉れと教え、国家と国民のあるべき精神と教えていました。おそらく内地でもそう教えていたでしょう。「滅私奉公」の精神であり、これは教育勅語の「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」として国民の義務として教えられていました。
 戦時体制下、台湾でも金属などの供出が行われ、家庭でもネクレスやイヤリングといった指輪まで供出しました。楊素秋さんによると「この指輪だけは」という母に対して父が「国が無かったら駄目だが、平和になればいくらでも買えるんだよ」と言って説得したと書かれています。「公」が無ければ「私」が無いということを言っています。

 戦後、教育勅語は廃止になり、「公」を教えなくなり、滅私奉公などばからしいという風潮になってしまいました。残ったのが「私」だけとなれば国民は「求める」だけになります。求めても応じられなければ、親が悪い、世の中が悪い、政治が悪い、になります。求めに応じてもらっても感謝せず当たり前という感覚になります。我々日本人は「戦前全否定」によって大切なものを失ってしまったように思います。



参考文献
 小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸をはりなさい 蔡 焜燦(著)
 桜の花出版「日本人はとても素敵だった」楊 素秋(著)
 平凡社新書「『君が代少年』を探して」村上政彦(著)

添付画像
 高雄駅1941年4月28日(PD)

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