福澤諭吉翁
我が国で初めて文明論を説き、文明という観点から国是・国策を論じたのが、福沢諭吉翁です。
本ブログでも、一昨年7月、一身独立して一国独立す、で福澤翁をご紹介させていただきました。
福沢翁は、幕末から明治の時代に、西洋に渡航して実情を視察し、日本人に西洋の新知識を伝えられ、これからの日本人はどうあるべきかを訴えられました。その要点は、日本の国柄を踏まえ、独立を守るために、西洋近代文明を摂取すべきとする文明論でした。
本ブログでも、一昨年7月、一身独立して一国独立す、で福澤翁をご紹介させていただきました。
福沢翁は、幕末から明治の時代に、西洋に渡航して実情を視察し、日本人に西洋の新知識を伝えられ、これからの日本人はどうあるべきかを訴えられました。その要点は、日本の国柄を踏まえ、独立を守るために、西洋近代文明を摂取すべきとする文明論でした。
若き福澤翁は安政2年より、緒方洪庵の適塾でオランダ語を学び、西洋の医学や科学・技術を学びました。これが彼の知識の基礎となりました。その後、いち早く英語の重要性を見抜かれ、独力で英語を習得し、欧米の政治や経済、社会思想なども貪欲に吸収されたのです。その旺盛な好奇心と鋭い理解力は、驚く程です。
福澤翁は、万延元年、咸臨丸に乗ってアメリカに行かれ、その後、ヨーロッパにも訪れ、西洋近代文明をつぶさに見聞されました。その経験をもとに書かれたのが、『西洋事情』です。幕末の知識人でこの本を読んでない人はいないというくらいに、当時のベストセラーとなりました。徳川慶喜公も西郷南洲翁もみな『西洋事情』を通じて西洋諸国のことを知られたのです。
維新後、福澤翁が、広範な知識と深い洞察力をもって、これから日本人は何をすべきかを説かれたのが、『学問のすすめ』です。
『学問のすすめ』の第1篇は、明治5年に発表されました。これは日本はじまって以来の大ベストセラーとなりました。
『学問のすすめ』の冒頭は、周知のとおりです。
「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」という一節はあまりに有名である。 誤解される事が多いが、この「云ヘリ」は、現代における「云われている」ということで、この一文のみで完結しているわけではなく、しかも、この言葉は福沢翁の言葉ではありません、アメリカ合衆国の独立宣言からの引用文です。
この引用文に対応する下の句とも言える一文は、
「サレドモ今広クコノ人間世界ヲ見渡スニ、カシコキ人アリ、オロカナル人アリ、貧シキモアリ、富メルモアリ、貴人モアリ、下人モアリテ、ソノ有様雲ト泥トノ相違アルニ似タルハ何ゾヤ」
です。即ち、
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている__人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。」
という事です。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」。この一句を、人間は平等でなければならないという意味だと思っている人が少なくないようです。確かに福澤翁は、人間は生まれながらに平等だと言っています。しかし、その本来平等たるべき人に違いが生じるのは、ひとえに学問をするか、しないかによると、結論しているのです。機会は平等でも結果は努力によって異なるのです。それが、福澤翁が『学問のすすめ』を書いた理由です。
ここで福澤翁が勧めた学問は、旧来の儒学ではなく、新しい「実学」でした。「実学」とは、科学です。科学といっても、自然科学のことだけではなく、政治学や経済学や倫理学など人文科学も含めた、近代西洋生まれの実際的な学問のことを意味します。そして、福沢翁は日本が文明化すること、言い換えれば西洋にならって近代化することを唱導されたのです。
しかし、福澤翁が説かれたのは、日本を西洋化することだったのでしょうか。話はそう単純ではなく、問題は、なぜ福澤翁は、西洋文明の摂取、西洋科学の習得を力説されたのでしょう?それは、わが国の独立を維持するためだっでした。
『学問のすすめ』で福澤翁は、無批判な西洋賛美をいましめられています。そして全巻の結論において、日本にとって文明が必要なのは、国の独立を守る手段であると述べ られています。すなわち、「国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり」と、福澤翁は明言されています。列強がアジアに進出し、インドやシナが蹂躙(じゅうりん)されていた当時のアジア情勢において、独立を守ることは、至上命題でした。
福澤翁は『学問のすすめ』を中断して、明治8年に刊行した『文明論之概略』でも、同じ主旨のことを説かれています。
「目的を定めて文明に進むの一事あるのみ。その目的とは何ぞや。内外の区別を明らかにして、我本国の独立を保つことなり。而してこの独立を保つの法は、文明の外に求むべからず。今の日本国人を文明に進むるは、この国の独立を保たんがためのみ」
そして、福沢翁は国の独立を保つために必要なのは、個人個人の独立心だと訴えました。
昨今、生活保護など不正受給等が問題になっていますが、福澤翁は遠い今日を見据えておられたのでしょうか?
「貧富強弱の有様は、天然の約束に非ず、人の勉と不勉とに由って移り変わるべきものにて、今日の愚人も明日は智者となるべく、昔年の富強も今世の貧弱となるべし。古今その例少なからず。我日本国人も今より学問に志し、気力のたしかにして先ず一身の独立を謀り、随って一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり」
この最後にある「一身独立して一国独立する」ということこそ、福澤翁が日本人に最も訴えたかったことでしょう。
独立心とは、愛国心に裏付けられてこそ、もち得るものです。福澤翁自身、強い愛国心をもたれ、わが国の国柄を尊び、皇室を敬う日本人でした。この点を理解して初めて、福澤翁の言われる「独立心」の意味も明らかになります。
『文明論之概略』で福澤翁は書かれています。
「日本にては開闢(かいびゃく)の初より国体を改(あらため)たることなし。国君の血統もまた連続として絶たることなし。ただ政統に至てはしばしば大いに変革あり。…政統の変革かくの如きに至て、なお国体を失わざりしは何ぞや。言語風俗を共にする日本人にて日本の政を行い、外国の人へ秋毫(しゅうごう)の政権をも仮(か)したることなければなり」
つまり、わが国は国の初めから、国体つまり国柄の根本が変わることがなかった。天皇の系統も連続して絶えることがなかった。政権はしばしば変わったが、国体が失われることはなかった。それは外国の支配を受けることがなかったからだ、と福澤翁は自らの歴史観を述べられています。これは、幕末・明治の日本人の共通認識であり、国民の常識でした。また、こうした自国の歴史に対する歴史観が、福澤翁の愛国心の根っこになっています。
福澤翁は書かれています。
「この時に当て日本人の義務は、ただこの国体を保つの一箇条のみ。国体を保つとは、自国の政権を失わざることなり」
この時つまり明治8年当時において、日本人の義務は、国体を保つという一事にある。国体を保つというのは、自国の政権を失わないことです。つまり、外国の支配を受けることなく、日本人が自らの民族による政権を守ることだ。福澤翁は説かれているのです。
「政権を失わざらんとするには、人民の智力を進めざるべからず。その条目は甚だ多しといえども、智力発生の道において第一着の急須は、古習の惑溺を一掃して西洋に行わるる文明の精神を取るにあり」
日本人自らによる独立政権を失わないためには、国民の知力を向上させなければならない。知力を発達させるために、しなければならないことはたくさんあるが、第一の急務は、古い慣習への惑溺を一掃して、西洋近代文明の精神を採り入れることだ、と。
福 澤翁の主張の背景には、幕末から明治にかけて、わが国が欧米列強の脅威にさらされていたという現実があります。
今日、シナ、南北朝鮮の両国、ロシアなどの隣国の驚異に晒されている状況は驚くほど酷似しています。
そして、福澤翁は、この厳しい国際環境において、日本人は白人の支配に屈するものかという強い気概をもつべきだと、国民同胞に訴えていたのです。これこそ、福澤翁の独立心が、強い愛国心に裏付けられていることを示されたものです。
福澤翁は、後年、皇室に対する敬愛の念を強めていきました。帝国議会開設に先立つ明治15年、福澤翁は『帝室論』を著し、日本皇室を論じています。「帝室」とは、皇室のことです。
「今日、国会の将に開かんとするに当たって、特に帝室の独立を祈り、遥かに政治の上に立ちて下界に降臨し、偏りなく党なく以て其の尊厳神聖を無窮に伝えんことを願う」
つまり福澤翁は、皇室は政治の上に立ち、不偏不党の立場にあるべきだとし、皇室の尊厳と神聖を未来永遠に伝えることを願われたのです。同書で福澤翁はこう書かれています。
「我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり、其功徳至大なりと云ふ可し」
つまり皇室は日本国民の精神を統合する中心である。その功徳は極めて大きいと福沢は考えていました。続けて彼は述べます。
「国会の政府はニ様の政党相争ふて火の如く水の如く盛夏の如く厳冬の如くならんと雖(いえ)ども、帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可し。国会の政府より頒布する法令は其冷たること水の如く。其情の薄きこと紙の如くなりと雖ども、帝室の恩徳は其甘きこと飴の如くして、人民これを仰げば以て其慍(いかり)を解く可し、何れも皆政治社外に在るに非ざれば行はる可らざる事なり」
福澤翁は、皇室は、政治の外にあって、その徳によって国民に和をもたらすような存在であるべきだと説かれました。
福澤翁は、単なる文明開化論者ではなく、日本の独立維持を訴え、愛国心と尊皇心を持つ日本人でした。その言説には、維新の志士たちに連なる、日本人の精神が脈打っています。
この点を理解する時、「独立心をもて」という福澤翁の訴えは、私たちの心に、一段と強く響きます。
福澤翁は明治34年に亡くなりました。その40年後、日本は米国と戦い、敗れました。戦後の日本は、敗戦国として米国の占領を受け、現在も米国の強い影響下にあります。物質的には福澤翁が想像できなかったほどの豊かさを享受していますが、、国の独立ということに関しては、逆に大きく後退し、国民の多くは独立心を失い、政府は外交や国防を他国に依存しています。さらに金融による経済戦争にも敗れ、シナの台頭、悪しき教育者の偏向教育、捻じ曲がった教科書等、日本人の多くは日本人としての誇りや自信をも失っているようです。
私たちは、福澤翁が文明化の目的とした、国の独立ということをしっかり考えていかねばなりません。そして、独立心を持て、独立心は愛国心からだ、という福澤翁の渾身のメッセージを受け止めなくてはなりません。