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平成19年、安倍総理はカルカッタ市内のチャンドラ・ボース記念館に行き、歓迎を受ける中このように語りました。
「イギリス統治からの独立運動を主導したボース氏の強い意志に、多くの日本人が深く感動している」
これに対し、ボース将軍の姪クリシュナ・ボースさんはこう言いました。
「日本の人々がボースの活躍を覚えていてくれるのなら、私たちもボースがイギリスの植民地支配に抵抗するためにインド国民軍を組織したことを支援してくれたのが日本だったことを忘れることはない」・・・・・・。
昭和18年6月、東京に来たインドのチャンドラ・ボースは日本国民に向けてこのような挨拶を送りました。
「日本の皆さん、今から40年前、私がようやく小学校に通い始めた頃、一東洋民族である日本が世界の強大国のロシアと戦い、これを大敗させました。
このニュースが全インドに伝わり、興奮の波がインドを覆いました。いたる所で旅順攻撃や奉天大会戦の勇壮な話で持ちきりでした。
私たちインドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を敬慕し、尊敬しました。元帥や大将の写真を手に入れようとしてもそれが出来ず、その代わりに市場から日本の品物を買ってきて、日本のシンボルとして家に飾ったものでした。その間、インドの革命家たちは、なぜ日本が強大国をやっつけることが出来たのか、日本を訪問し始めました。
日本はこの度、インドの旧敵イギリスに対して宣戦しました。日本は私たちインド人に対して、独立のための絶好の機会を与えました。
私たちはそれを自覚し感謝しています。一度この機会を逃せば、今後百年以上訪れることはないのでしょう。勝利は我々のものであり、インドは独立することを確信しています」
この年の10月にチャンドラ・ボースは「自由インド仮政府」を樹立し、英・米に対して宣戦布告します。そして、同年11月5日に開催された大東亜会議に「自由インド仮政府」としてオブザーバーで参加します。
その後、インパール作戦でインド国民軍(INA)は日本軍とともに戦い、兵力6千のうち4百名が戦死したりして2千6百名となりました。
日本軍がインパールの南西の2926高地まで進撃した時、日本兵の赤い血を流した丘としてここをレッド・ヒルと呼んでいます。結局、日本軍は補給なく、戦死が続き、撤退やむなきに至ります。
昭和52年、現地の人たちでレッド・ヒルと名付けたこの丘のふもとに日本兵の慰霊塔を建てました。この慰霊塔建立を推進したロトパチン村のモヘンドロ・シンハ村長はこのように言いました。
「私たちは日本兵が、インドの解放のために戦ってくれたことをよく知っていました。私たちは食料や衣料を喜んで提供しました。
ところがイギリス軍がそれを知って阻止しました。日本軍は飢餓に追い込まれましたが、勇敢に戦い、次々に戦死してゆきました。この勇ましい行為はすべてインド独立のためだったのです。
私たちはいつまでもこの勇戦を後の世まで伝えていこうと思って慰霊塔を建てました。この塔は日本軍人へのお礼と独立インドのシンボルにしたいのです。そのため村民で毎年慰霊祭を行っています」
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