泉 芳朗 頌徳記念像
平成9年(1997年)7月20日除幕(徳之島伊仙町義名山公園)
主権回復を記念する式典が近づいている。サンフランシスコ講和条約が発効した「4月28日」に畏くも両陛下の行幸啓を仰ぎ、政府主催で28日に催されます。
沖縄の一部に4月28日は、日本から切り離された「屈辱の日」に当たると反発の意見もあります。しかし、はたしてそうでしょうか?
昭和27年4月28日、日本はサンフランシスコ講和条約の発効とともに、悲願の主権を回復しました。この日から、日本人は、堂々と国旗「日の丸」を掲げ「君が代」を唱えられるようになりました。4月28日は、日本の主権回復の日また「日の丸」復活の日です。この日の意義を記念するため、国の祝日とし、肇国以来、初めて日本が占領下にあった時代があったという事実を国民の心に刻むべきです。
今日余り知られていませんが、昭和27年4月28日を迎えてもなお、日本の主権が回復されない場所がありました。その一つが鹿児島県南西部にある奄美大島でした。
冒頭の画像は、奄美の復帰の父と慕われた泉 芳朗氏です。
以下に碑文を引用します。
昭和20年 日本の敗戦で奄美の島々は アメリカの軍政下におかれたが
郡民上げての祖国復帰運動で 8年ぶりに日本復帰が実現した
泉芳朗はその復帰運動の指導者 奄美大島日本復帰協議会議長である
冒頭の画像は、奄美の復帰の父と慕われた泉 芳朗氏です。
以下に碑文を引用します。
昭和20年 日本の敗戦で奄美の島々は アメリカの軍政下におかれたが
郡民上げての祖国復帰運動で 8年ぶりに日本復帰が実現した
泉芳朗はその復帰運動の指導者 奄美大島日本復帰協議会議長である
泉は 軍政下の厳しい弾圧にもひるまず 掲揚を禁じられていた日の丸を
郡民大会の壇上で打ちふり これがわれらの祖国日本の旗です
と郡民の決起を呼びかけ 5日間に及ぶ断食祈願で祖国復帰の大悲願を
世界に向かって訴えた
奄美を愛し 平和と自由を愛した泉は 至情あふれる多くの詩を作って郡民
をふるい立たせ 外に向かってはアメリカや日本政府への陳情などに奔走した
泉はこの島に生まれ 教師となり 島内外の学校で教えるかたわら 詩集の刊行
など中央詩壇でも活躍し 後に学校長 郡視学 名瀬市長などの要職に就いたが
戦後の激動期の中で 郷土奄美大島の祖国復帰運動に身を投じた
復帰が実現した昭和28年12月25日 泉は その感動を詩に歌った
流離の日日は終わった 苦難のうず潮は去った ながい 空白の暦を閉じて
この目にあおぐ 日の丸の空
見よ 高らかに花火を打ち放って ぞんぶんに湧きかえる 奄美の山川草木
うからやから われらもろもろ いまぞ 祖国に帰る
昭和34年4月9日 泉は 復帰の父と慕われながら 54年の生涯を閉じた
この歴史に残る 奄美の郡民による 祖国復帰運動の偉大な足跡と
泉芳朗の功労を顕彰し ここに広く同胞の志を寄せて 泉芳朗の像を建立する
平成9年(1997年)7月吉日
12月25日、奄美日本復帰の日
沖永良部島の復帰運動
郡民大会の壇上で打ちふり これがわれらの祖国日本の旗です
と郡民の決起を呼びかけ 5日間に及ぶ断食祈願で祖国復帰の大悲願を
世界に向かって訴えた
奄美を愛し 平和と自由を愛した泉は 至情あふれる多くの詩を作って郡民
をふるい立たせ 外に向かってはアメリカや日本政府への陳情などに奔走した
泉はこの島に生まれ 教師となり 島内外の学校で教えるかたわら 詩集の刊行
など中央詩壇でも活躍し 後に学校長 郡視学 名瀬市長などの要職に就いたが
戦後の激動期の中で 郷土奄美大島の祖国復帰運動に身を投じた
復帰が実現した昭和28年12月25日 泉は その感動を詩に歌った
流離の日日は終わった 苦難のうず潮は去った ながい 空白の暦を閉じて
この目にあおぐ 日の丸の空
見よ 高らかに花火を打ち放って ぞんぶんに湧きかえる 奄美の山川草木
うからやから われらもろもろ いまぞ 祖国に帰る
昭和34年4月9日 泉は 復帰の父と慕われながら 54年の生涯を閉じた
この歴史に残る 奄美の郡民による 祖国復帰運動の偉大な足跡と
泉芳朗の功労を顕彰し ここに広く同胞の志を寄せて 泉芳朗の像を建立する
平成9年(1997年)7月吉日
12月25日、奄美日本復帰の日
沖永良部島の復帰運動
奄美では昭和21年3月に本土出身の「日本人」が公職から追放されて鹿児島へ強制送還され、10月に「奄美人」による臨時北部南西諸島政庁が発足、昭和25年11月には奄美群島政府に昇格し、ちょっとしたミニ国家のような状態になったのです。米軍の指令によって、本土企業の支店や営業所は接収されて公営企業となり、大島中央銀行も誕生した。群島政府知事や群島議会の選挙に先駆けて、協和党や社会民主党などの独自政党が生まれ、地下組織として結成された奄美共産党は当初「奄美人民共和国の独立」を掲げました。
祖国なき人となるよりむしろ死を
これは当時18歳の一少年が詠んだ歌です。
しかし、4つの群島知事選の結果はいずれも「日本復帰の実現」を公約にした候補が勝利したため、不愉快になったアメリカは26年4月、新たに琉球臨時中央政府を設立し、群島政府は廃止することを決定。翌27年4月に琉球政府を発足させた。琉球政府のトップである主席は公選ではなく米軍からの任命で選ばれ、親米派の元英語教師を主席に据えた。こうして奄美の行政は沖縄と一体化することになった。
27年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約では、南西諸島は正式に日本から切り離されてアメリカの施政権下に置かれた。平和条約の調印を前にして本土復帰運動が急速に盛り上がったが、なかでも激烈だったのが奄美でした。復帰要求の署名運動では、14歳以上の住民のうち99・8%もの署名が集まり(沖縄本島では72%)、数千人規模で村ぐるみの断食祈願(つまりハンガーストライキ)が繰り返された。
なぜならば、日本と切り離された打撃は沖縄より奄美の方が大きかったのです。アメリカ統治が始まってから本土との往来は禁止され、後に緩和されはしたものの本土へ行くにはパスポートが必要であり、渡航許可は那覇を経由して申請だったので手続きに数週間かかったのです。本土への商品出荷は「外国製品」として関税がかけられたため売れなくなり、日本政府や鹿児島県からの補助金はストップしたうえ、アメリカからの援助は沖縄本島の復興が優先されたので奄美にはほとんどまわってこなかったのです。このため奄美住民の生活は困窮し、沖縄のように基地産業で潤うこともなかったのです。「われわれは日本人なのだ。にもかかわらずアメリカの支配を受けて、日本から切り離されたことは、われわれにとり耐えることができない」と。
動画にもありますが、奄美の人々は必死の思いで、祖国日本への復帰運動を展開したのです。
祖国なき人となるよりむしろ死を
われら選ばん 奄美島人
これは当時18歳の一少年が詠んだ歌です。
昭和28年12月25日、ようやく奄美の人々の血のにじむような努力が実り、日本への復帰が実現しました。当時、現地の新聞は、次のように書き記しています。
「ああ、われらは帰った。日本に帰った。昭和28年12月25日午前零時。この瞬間われわれ奄美24万の人民は日本となった。日本人でありながら、日本人でなかった民族の流転史に終止符を打った。まさに歴史的瞬間であった。苦しかった8年、つらかった8年、血を吐いて独立を叫んだ幾多の犠牲者を出したこの8年、だがわれわれは、この瞬間から、歴史を取り戻したのだ」と・・・
この日の朝、実に8年ぶりに、奄美大島に「日の丸」の旗が掲げられました。当時の新聞記事は、伝えています。「朝靄の軒並に日の丸の旗がはためき、町から村へ旗風は喜びを呼び、また喜びを呼んで、島の新しい第一日は明け放たれた」と・・・。
奄美群島日本復帰
奄美群島復帰50周年記念式典、平成15年11月 両陛下御尊影
平成15年11月14日~17日、天皇皇后両陛下におかせられましては、「奄美群島日本復帰50周年記念式典」(主催:沖縄奄美連合会)にご親覧のため奄美大島を行幸啓あそばされた。
そして大御歌、御歌をご下賜あそばされ、その御製碑が奄美市立奄美博物館入口に建立されている。
今上陛下お言葉
本日,ここ名瀬市において,多くの関係者と共に,奄美群島日本復帰50周年記念式典に臨むことを誠に喜ばしく思います。
奄美群島は,先の大戦の後,昭和21年に日本本土から分離され,米国の施政下に置かれました。昭和27年4月,日本と連合国との平和条約が発効しました が,この状況に変わりはありませんでした。群島挙げての復帰運動がようやく実を結び,ついに日本に返還されたのは,それから1年半以上経った昭和28年 12月25日のことでありました。復帰運動に携わった多くの人々の労苦はいかばかりのものであったかとしのばれます。日本人の多くが,この復帰を平和条約 に続くうれしいことと喜びをもって迎えたことが思い起こされます。
私どもは,復帰から15年を経た昭和43年,鹿児島市で行われた明治百年記念式典に出席した機会に,奄美大島を訪れ,また,それから4年後,昭和47年鹿児島県で行われた第27回国民体育大会夏季大会出席の機会には,徳之島を訪れました。これらの島々への訪問は,懐かしい思い出として私どもの心に残りました。それとともに,島の生活の厳しい状況にも理解を深めることができました。ハブが島民に及ぼす影響の実例について聞いたことも思い起こされます。
私どもが奄美大島を訪問してから35年の月日が経ちました。今日,島は,当時に比べ,社会基盤が良く整備され,生活が向上してきていると聞いております。永年にわたり,奄美群島の発展に力を尽くした多くの人々に対し,ここに深く敬意を表します。
奄美群島はアマミノクロウサギやルリカケスを始めとして,群島にのみ生息する生物が多くいることで特徴づけられます。しかし,島の生物は個体数が限られ, 環境の変化にも決して強いものではなく絶滅が心配されます。特にオオトラツグミは百羽程度しかおらず,極めて厳しい状況にあると言われております。島の 人々の生活に配慮しながらこれらの貴重な生物を守っていくことは極めて大切なことと思います。
奄美群島日本復帰50周年の機会に,島民皆が,復帰運動に取り組み,これを成し遂げた先達の努力に思いをいたし,島の特性を生かして,様々な面で島を豊かにしていくよう願っています。
終わりに,奄美群島の一層の発展と島の人々の幸せを祈り,お祝いの言葉といたします。
大御歌
奄美大島訪問(平成15年)
復帰より五十年(いそとせ)経るを祝ひたる式典に響く島唄の声
皇后陛下 御歌
日本復帰五十周年を迎へし奄美にて(平成15年)
紫の横雲なびき群島に新しき朝今し明けゆく
奄美大島の祖国復帰、祖国の存在と、自国の国旗を掲げられることの意義を教えてくれています。
「今ぞ祖国へ」奄美復帰の父、泉 芳朗氏の言葉を噛みしめて・・・・