☆続きです。
昨日のお話を簡単に要約すると、
保守主義は、神学に基づき、現在も過去も未来も否定し、
剣をもって戦いながら神のもとに還ろうとする。
共産主義は、神学を否定し、
人類の力で未来にユートピアを築こうとする、
という事になります。
いいかえると、西欧における保守と革新の戦いは、
「神学」と「科学」の戦いでもあるわけです。
バークが非難したフランス革命は、人々が中世的支配を脱し、
「自由、平等、博愛」に基づく社会を
昨日のお話を簡単に要約すると、
保守主義は、神学に基づき、現在も過去も未来も否定し、
剣をもって戦いながら神のもとに還ろうとする。
共産主義は、神学を否定し、
人類の力で未来にユートピアを築こうとする、
という事になります。
いいかえると、西欧における保守と革新の戦いは、
「神学」と「科学」の戦いでもあるわけです。
バークが非難したフランス革命は、人々が中世的支配を脱し、
「自由、平等、博愛」に基づく社会を
人の手で築こうとした革命です。
これは、本来神のもとに回帰しなければならないとする
神学の立場からすれば、人類の傲慢です。
だからこそバークは「剣を抜け!」
「神のもとに還れ!」と主張したわけです。
この事を別な角度から整理すると、
西欧型保守主義が理想として目指すのは、
あくまでも神のもとにあるエデンだ、という事です。
従って原罪を受けた人類が築いてきた営みは、
そのことごとくが間違いだ、となります。
間違っているから、剣を抜いて戦うのです。
正しければ戦う必要などありません。
一方共産主義は、ユートピアを目指します。
その為に現在の社会構造は、全て破壊の対象となります。
なぜなら過去も現在も、そこはユートピアではないからです。
そして破壊は、人の命や近隣諸国にまで及びます。
破壊しなければ、ユートピアの建設ができないからです。
こうした西欧的概念は、
明治以降の日本の洋風化の中で、日本に渡来してきました。
はじめに日本で強く影響を表したのは、共産主義です。
共産主義思想に染まった人達は、
日本にユートピアを建設する為に、
日本社会の破壊を目論みました。
一方、西欧的保守主義思想が我が国に入ってきて定着するのは、
むしろ戦後になってからの出来事です。
保守思想は、明治、大正、昭和初期の日本では、
殆ど定着していません。
これは、一つには、共産主義という破壊主義思想に対して、
特高などの治安維持警察が、厳しく取締り、
社会の中での影響力をを押さえ込んだという理由があります。
そしてもう一つ、定着しなかった理由として、
我が国には「エデン」思想がそもそもない、
という事が大きなファクターとなっています。
例えてみれば、西欧における祝福の地であるエデンは、
日本でいったら、蓬莱山か極楽浄土なのですが、
極楽浄土は死んでから行くところだし、
蓬莱山はマルコポーロが唱えた理想国家だけれど、
それは日本そのものを指していますから、
日本の現状を打破しようとするのに、
日本が理想国家では、話にならないからです。
思想というものは、その国の民族の歴史、伝統、
文化に立脚したものでなければ、まず浸透しません。
ですからそもそもエデンという約束の地を持たない日本は、
バークの「保守主義」は浸透のしようもなかったのです。
ところが戦後になってから、
西欧的保守思想は急激に日本に浸透しました。
これはなぜかというと、戦後、
急激に台頭した左翼勢力によって、
日本解体、日本破壊が急激に進行した事の裏返しです。
特に戦後左翼は、旧ソ連や北朝鮮や中共を「地上の楽園」、
「人類が造った理想の国家」と規程し、
これを盛んに宣伝しました。
今にしてみれば、ソ連や北朝鮮、中共の、
一体どこが理想のユートピアなのかと問いたくなりますが、
未だに共産主義的破壊思想である家族や家庭からの解放、
男女の性差からの解放、道徳的抑圧からの解放などという
デタラメを真に受けて活動している日本人がいるというのは、
実に悲しい現実です。
こうした、戦後、派手になった左翼の動きに対し、
日本を守る、日本的価値観を護ろうとする人々が、
新たな価値観として導入したのが、「剣を持って戦え!」と
主張するバークの保守主義であったわけです。
ですから「戦後保守」の中心をなしていたのは、
正に「剣をもって戦う」という防共、反共思想であり、
その為の行動原理として、
西欧的保守主義が日本に取り入れたわけです。
但し、防共、反共というには、
何か「護りたいもの」があるから「反対」するのです。
その「護ろうとするもの」が、皇室を重んじ、
日本の歴史、伝統、文化を重んじ、
そこに学ぶことによって現在を生き、
新しい未来を築こうという「日本主義」であったわけです。
つまり、防共、反共運動も、その根幹にあったのは、
日本主義そのものであり、日本主義を護る為に、
防共、反共の戦いを挑んだ、
その為の理論武装として選んだのが、
バークの戦う姿勢であった、という事ができます。
ところが、こうした抵抗運動は、左翼の活動が、
学連や革マルのような直接的な破壊活動から、
家族や家庭からの解放、男女の性差からの解放、
道徳的抑圧からの解放といった、
やや文化的な活動に矛先を変え出すと、
大変にやりにくい、動きづらいものとなっていきます。
ゲバ棒を持って破壊活動をする者達に対しては、
剣を抜いて「ならぬ!」と威嚇する事は
世間の賛同を得る事ができたのですが、
解放という自由を求める人達に、
剣を抜いて「自由はいかん!」という威嚇をする事は、
逆に暴力的な存在とみなされるようになってしまうという
マイナス面をもたらし、
世間の賛同を得にくくしてしまったわけです。
とりわけ日本においては、保守思想にあるエデンも、
左翼思想のユートピアもそもそもありません。
ですから、多くの日本人にとっては、
それらは、よくわからない世界です。
西欧で生まれたエデンに還ろうという「保守主義」にしても、
誰もみた事もないユートピアを目指そうという
「共産主義」にしても、私達日本人からみれば、
それらは地に足の着かない「空想主義、理想主義」でしかない。
大切な事は、今を一生懸命に生き、未来を築く事だけ。
それが多くの日本人の普通の考え方となって行きます。
この為、政治における保守と革新、右派と左派の対立も、
なるほど革新や左翼には首をかしげるが、
さりとて保守というものもよくわからない。
なので、とりあえず政治の事は放置して、
民間部門でお仕事に精を出そう、というのが、
多くの日本人の普通の概念となっていった訳です。
そしてその事が、ますます多くの日本人から
政治離れを加速するという結果を招いています。
けれど、よく考えてみれば、西欧的保守主義も、
西欧的共産主義も、強いて言えば、その本質にあるのは、
架空の絵を描いて、そこに向かって進もうと言う思想です。
これに対し日本人が古来から持つ考え方は、
過去に学び、現在に活かし、未来を築く、というものです。
日本人にとって、理想の未来などというものは存在しません。
ある程度社会経験をもった人なら、
誰でもわかると思うけれど、会社でも、
そりゃあ、儲かって儲かって、
社員の全員が仕事をしなくても高給をもらえるような会社は
理想かもしれないけれど、そんな夢想ばかりで
日々の仕事をしなければ、会社なんて簡単に潰れてしまいます。
学び、努力すれば未来は拓けるし、
学ばず努力を怠れば、未来は崩壊します。
当たり前の事です。
同様に、日本人にとって、
理想の過去などというものも存在しません。
浮き世は常に様々な問題を抱え、
その問題の中で四苦八苦しながら、
人の世を織りなすというのが、日本人の考え方です。
夏目漱石の草枕です。
=====
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。
やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、
これは、本来神のもとに回帰しなければならないとする
神学の立場からすれば、人類の傲慢です。
だからこそバークは「剣を抜け!」
「神のもとに還れ!」と主張したわけです。
この事を別な角度から整理すると、
西欧型保守主義が理想として目指すのは、
あくまでも神のもとにあるエデンだ、という事です。
従って原罪を受けた人類が築いてきた営みは、
そのことごとくが間違いだ、となります。
間違っているから、剣を抜いて戦うのです。
正しければ戦う必要などありません。
一方共産主義は、ユートピアを目指します。
その為に現在の社会構造は、全て破壊の対象となります。
なぜなら過去も現在も、そこはユートピアではないからです。
そして破壊は、人の命や近隣諸国にまで及びます。
破壊しなければ、ユートピアの建設ができないからです。
こうした西欧的概念は、
明治以降の日本の洋風化の中で、日本に渡来してきました。
はじめに日本で強く影響を表したのは、共産主義です。
共産主義思想に染まった人達は、
日本にユートピアを建設する為に、
日本社会の破壊を目論みました。
一方、西欧的保守主義思想が我が国に入ってきて定着するのは、
むしろ戦後になってからの出来事です。
保守思想は、明治、大正、昭和初期の日本では、
殆ど定着していません。
これは、一つには、共産主義という破壊主義思想に対して、
特高などの治安維持警察が、厳しく取締り、
社会の中での影響力をを押さえ込んだという理由があります。
そしてもう一つ、定着しなかった理由として、
我が国には「エデン」思想がそもそもない、
という事が大きなファクターとなっています。
例えてみれば、西欧における祝福の地であるエデンは、
日本でいったら、蓬莱山か極楽浄土なのですが、
極楽浄土は死んでから行くところだし、
蓬莱山はマルコポーロが唱えた理想国家だけれど、
それは日本そのものを指していますから、
日本の現状を打破しようとするのに、
日本が理想国家では、話にならないからです。
思想というものは、その国の民族の歴史、伝統、
文化に立脚したものでなければ、まず浸透しません。
ですからそもそもエデンという約束の地を持たない日本は、
バークの「保守主義」は浸透のしようもなかったのです。
ところが戦後になってから、
西欧的保守思想は急激に日本に浸透しました。
これはなぜかというと、戦後、
急激に台頭した左翼勢力によって、
日本解体、日本破壊が急激に進行した事の裏返しです。
特に戦後左翼は、旧ソ連や北朝鮮や中共を「地上の楽園」、
「人類が造った理想の国家」と規程し、
これを盛んに宣伝しました。
今にしてみれば、ソ連や北朝鮮、中共の、
一体どこが理想のユートピアなのかと問いたくなりますが、
未だに共産主義的破壊思想である家族や家庭からの解放、
男女の性差からの解放、道徳的抑圧からの解放などという
デタラメを真に受けて活動している日本人がいるというのは、
実に悲しい現実です。
こうした、戦後、派手になった左翼の動きに対し、
日本を守る、日本的価値観を護ろうとする人々が、
新たな価値観として導入したのが、「剣を持って戦え!」と
主張するバークの保守主義であったわけです。
ですから「戦後保守」の中心をなしていたのは、
正に「剣をもって戦う」という防共、反共思想であり、
その為の行動原理として、
西欧的保守主義が日本に取り入れたわけです。
但し、防共、反共というには、
何か「護りたいもの」があるから「反対」するのです。
その「護ろうとするもの」が、皇室を重んじ、
日本の歴史、伝統、文化を重んじ、
そこに学ぶことによって現在を生き、
新しい未来を築こうという「日本主義」であったわけです。
つまり、防共、反共運動も、その根幹にあったのは、
日本主義そのものであり、日本主義を護る為に、
防共、反共の戦いを挑んだ、
その為の理論武装として選んだのが、
バークの戦う姿勢であった、という事ができます。
ところが、こうした抵抗運動は、左翼の活動が、
学連や革マルのような直接的な破壊活動から、
家族や家庭からの解放、男女の性差からの解放、
道徳的抑圧からの解放といった、
やや文化的な活動に矛先を変え出すと、
大変にやりにくい、動きづらいものとなっていきます。
ゲバ棒を持って破壊活動をする者達に対しては、
剣を抜いて「ならぬ!」と威嚇する事は
世間の賛同を得る事ができたのですが、
解放という自由を求める人達に、
剣を抜いて「自由はいかん!」という威嚇をする事は、
逆に暴力的な存在とみなされるようになってしまうという
マイナス面をもたらし、
世間の賛同を得にくくしてしまったわけです。
とりわけ日本においては、保守思想にあるエデンも、
左翼思想のユートピアもそもそもありません。
ですから、多くの日本人にとっては、
それらは、よくわからない世界です。
西欧で生まれたエデンに還ろうという「保守主義」にしても、
誰もみた事もないユートピアを目指そうという
「共産主義」にしても、私達日本人からみれば、
それらは地に足の着かない「空想主義、理想主義」でしかない。
大切な事は、今を一生懸命に生き、未来を築く事だけ。
それが多くの日本人の普通の考え方となって行きます。
この為、政治における保守と革新、右派と左派の対立も、
なるほど革新や左翼には首をかしげるが、
さりとて保守というものもよくわからない。
なので、とりあえず政治の事は放置して、
民間部門でお仕事に精を出そう、というのが、
多くの日本人の普通の概念となっていった訳です。
そしてその事が、ますます多くの日本人から
政治離れを加速するという結果を招いています。
けれど、よく考えてみれば、西欧的保守主義も、
西欧的共産主義も、強いて言えば、その本質にあるのは、
架空の絵を描いて、そこに向かって進もうと言う思想です。
これに対し日本人が古来から持つ考え方は、
過去に学び、現在に活かし、未来を築く、というものです。
日本人にとって、理想の未来などというものは存在しません。
ある程度社会経験をもった人なら、
誰でもわかると思うけれど、会社でも、
そりゃあ、儲かって儲かって、
社員の全員が仕事をしなくても高給をもらえるような会社は
理想かもしれないけれど、そんな夢想ばかりで
日々の仕事をしなければ、会社なんて簡単に潰れてしまいます。
学び、努力すれば未来は拓けるし、
学ばず努力を怠れば、未来は崩壊します。
当たり前の事です。
同様に、日本人にとって、
理想の過去などというものも存在しません。
浮き世は常に様々な問題を抱え、
その問題の中で四苦八苦しながら、
人の世を織りなすというのが、日本人の考え方です。
夏目漱石の草枕です。
=====
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。
やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、
越す国はあるまい。
あれば人でなしの国へ行くばかりだ。
人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
=====
これが古来からある日本人の一般的な思考です。
その意味では、日本的思考というのは、
西欧的保守主義や共産主義などによる空想主義よりも、
遥かに進んだ現実主義であるという事ができます。
☆続きます。
日心会メルマガより
あれば人でなしの国へ行くばかりだ。
人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
=====
これが古来からある日本人の一般的な思考です。
その意味では、日本的思考というのは、
西欧的保守主義や共産主義などによる空想主義よりも、
遥かに進んだ現実主義であるという事ができます。
☆続きます。
日心会メルマガより