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[転載]日本精神

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 我は海の子白浪の さわぐいそべの松原に
 煙たなびくとまやこそ 我がなつかしき住家なれ

 二
 生れてしほに浴して 浪を子守の歌と聞き
 千里寄せくる海の気を 吸ひてわらべとなりにけり

 三
 高く鼻つくいその香に 不断の花のかをりあり
 なぎさの松に吹く風を いみじき楽と我は聞く

 四
 丈余のろかい操りて 行手定めぬ浪まくら
 百尋千尋海の底 遊びなれたる庭広し

 五
 幾年ここにきたえたる 鉄より堅きかひなあり
 吹く塩風に黒みたる はだは赤銅さながらに

 六
 浪にただよう氷山も 来らば来れ恐れんや
 海まき上ぐるたつまきも 起らば起れ驚かじ

 七
 いで大船を乗出して 我は拾はん海の富
 いで軍艦に乗組みて 我は護らん海の国
 
 
明治43年に『尋常小学読本唱歌』に発表された唱歌です。大東亜戦争後、7番の歌詞は国防思想や軍艦が登場するという理由でGHQの指示により教科書から削られました。昭和22年以降、小学校では3番までしか教えられていません。
この曲の作詞者ではないかと言われているのが本稿でご紹介する芳賀 矢一(はが やいち)氏です。
越前国生まれ。第一高等中学校を経て、帝国大学文科(のちの東京帝大文学部)卒業。小中村清矩に学ぶ。明治31年に東京帝国大学助教授、翌年よりドイツに留学し、文献学を学ぶ。明治34年帰国し、東京帝国大学教授。上田萬年に続く東京帝大国語国文学教授で、国学とドイツ文献学をあわせた日本国文学の基礎を作り、また国語教育に携わり国定教科書を編纂した。「尋常小学読本」編集・校閲との関連で、文部省著作の「尋常小学唱歌」歌詞校閲には深く関わり、自ら「我は海の子」「雪」「鎌倉」などを作詞しました。
大正10年東宮職御用掛として摂政宮(のちの昭和天皇)に国典を進講したことでも知られています。
 
 
 
イメージ 1
芳賀 矢一氏胸像(國學院大学)
 
 
 
明治20年代に登場した「日本主義」は、その後、発展を続けました。
日本主義の思潮の中から、「日本精神」という言葉が登場し、明治になって、古来の「大和魂」「大和心」を、近代的に「国民精神」などと呼んでいたのに代わって、「日本精神」という新しい言葉が使われるようになったのです。
「日本精神」という言葉を使った最初期の人物が、芳賀氏なのです。
芳賀氏は、国語政策にも尽力した人物です。
芳賀氏は、明治40年に、著書『国民性十論』を著しました。これは留学経験を生かした文化史的な観点から、従来になく詳しい国民性論を展開したものでした。
 芳賀氏は、日本の国民性の特質として、次の10項目を挙げています。
 
(1)忠君愛国
(2)祖先を崇び家名を重んず
(3)現世的実際的
(4)草木を愛し自然を喜ぶ
(5)楽天洒落
(6)淡白瀟洒
(7)繊麗繊巧
(8)清浄潔白
(9)礼節作法
(10)温和寛恕
 
 などです。
 
 
 そして、これらの項目の説明をしています。
たとえば、(1)の「忠君愛国」では、日本国民の皇室に対する考えは、古今東西全く類例がないとして、皇室に対する忠義と愛国心を強調し、武家で養成された武士道精神が、明治以後は皇室に向かって捧げられることになったと述べています。
(2)の「祖先を崇び家名を重んず」では、この性向は、もともと日本は神祇政治・宗族政治の国で、村の氏神、家の先祖、家名を重んじる伝統があるからだとします。このような具合に、各項目を展開し、最後の(10)「温和寛恕」については、当時、欧米に現れた「黄禍説」に関して、日本人は古来侵略的でなく異人種に寛容であると言い、また神話・童話などにも残酷な話は非常に少ないと述べています。
芳賀氏の『国民性十論』は、本ブログの拙稿、日本人とは・・三宅雪嶺でも紹介していますが、三宅雪嶺の『真善美日本人』(明治24年発行)以来の総合的な日本人論として、大きな反響を呼んだのです。本書が出た当時は、日露戦争(明治38年)、日英同盟、排日運動などが起こった時期でもあり、日本が国際社会に大きく登場したところで、日本人とは何かということが改めて自問される時代だったのです。ですから『国民性十論』は大きな注目をもって読まれたのです。
 芳賀氏は、明治45年には『日本人』を発表しました。その内容は、後の大正・昭和の日本論の骨格が、ほぼ出されていると考えられるものです。
たとえば、第1章「すめらみこと」では、「すめらみこと」としての天皇を「現神(あきつかみ)」とする日本の国体を、国民性の政治的な土台と考えています。第2章「家」では、日本を「家族国家」と考えました。
その単位集団である家における家長に対する「孝」の念と、天皇に対する「忠」の心が、全く同じものだとします。第6章「同情」では、犠牲的精神が日本人の美質で、義侠とも呼ばれ、忠臣蔵はその象徴であるとします。第9章「国家」では、皇室に対する忠誠心が古代から変わらず、君と国とは一つであるとしています。そして結語では、教育勅語を引用しています。
 
芳賀氏が活躍していた明治45年頃から、「日本精神」という言葉が用いられ始めます。日本の「国民精神」という意味で、「日本精神」という新語が登場したのは、自然な展開でした。
大正6年に芳賀は、ロンドンの日本協会で、「日本精神」を演目とする講演を行いました。その中で、芳賀氏は、武士道について触れ、次のように述べています。
「勇猛にしてしかも謙遜、天皇と皇祖皇宗の神々の他には何物をも恐れない日本武人の本質は、遠い神代の昔から子々孫々に伝わったもので、鎌倉時代に始めて現れたものではない。もしそういう祖先の先例がなかったならば、武士道の発達は不可能であったに違いない。そうして後世の領主に対するあの熱烈な忠節は存在し得なかったと思う。たまたま後世の叙事詩や戯曲だけを読んだだけで、古代文学について何の知識も持たない人が、武士道の起源を中世の精神であるかの如く誤り伝えたのである」と・・・・
 
こうした芳賀氏の武士道の見方は、新奇なものではありません。幕末から明治を生き、明治大帝に仕えた剣豪・山岡鉄舟は、武士道を日本古来の日本人の道と説きました。芳賀氏の見方は、鉄舟と根本において一致し、彼らはともに、武士道に現れた日本精神を深く観察していたのです。
芳賀氏は、明治20年代以降の日本主義を受け継ぎ、日本精神について、初めて本格的に、国際的な視野で総合的な考察を行いました。芳賀氏あたりから「日本精神」という用語が使用され、大正10年代には積極的に使われるようになっていきます。「日本精神」という言葉は、「世界の中の日本」を自覚した日本主義の思潮の中から、登場したのです。
 
混迷の時代と言われる今日、今まさに「日本精神」が必要とされ、明治の偉人に学び、五箇条の御誓文の精神に立返る時ではないでしょうか?
 
 

転載元: 美し国(うましくに)


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