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ブラック・デス・アイランド ~ 硫黄島

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硫黄島の戦い。

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 昭和20年(1945年)2月19日 ~ 3月26日、硫黄島で日米死闘が繰り広げられ、日本軍は玉砕しました。日本側戦死 17,845~18,375 (軍属82を含む)、米側戦死 6,821 戦傷 21,865。米大統領のルーズベルトは米側の損害を聞いて、戦慄のあまり息をのんだといいます。

 昭和19年(1944年)秋になるとマリアナが陥落したせいで、硫黄島は最前線となり、将兵も「任地硫黄島」といわれただけで、顔から血が引くようになっていました。

 硫黄島の戦いは過酷な戦闘がよく言われていますが、米軍上陸前からさながら地獄の様相でした。まず硫黄島には水がない。雨以外の飲料水はゼロです。そこに二万の将兵がいるわけです。50メートルほっても水は出てきません。海岸近くを掘ると硫黄混じりの塩水が出て来て炊事はこの水で行いました。地下壕を掘ると中は40度から50度の温度になります。さらに米上陸前からも米軍機や米潜水艦の攻撃によって本土からの輸送も困難になってきて、食料も不足し、度重なる空襲の恐怖も加わり、発狂するもの、自殺するもの、逃亡するものが現われました。中には自分の銃で自分の足を撃ち、内地に送還してもらおうとするものもいて、「敵前従軍免脱」として銃殺刑になったものもいます。

 米軍が上陸してくるほんの10日ほど前の昭和20年(1945年)2月10日、根本正良少尉らの一式陸攻隊は硫黄島へ緊急強行輸送を行います。硫黄島に着陸し、荷物を下ろすと何気なしに折り詰め弁当を3/4食べて残りをすてると、滑走路の補修工事をしていた現地兵が、それを拾い上げ、飯粒を一粒一粒集めはじめました。根本少尉はそれをみて愕然とします。そして機内に戻ってありったけの帰路のための弁当をかき集めて現地の兵士たちに差し出しました。兵士は弁当を将校に渡すと、将校は「俺はいい。皆でいただけ」といい、それを見ていた根本少尉の眼に涙がにじみました。

 硫黄島へ食料を運んだ輸送艦に荷揚げ作業のために現地の兵士が艦上にあがってきたとき、船の乗組員は思わず息をのみます。どの現地兵士も真っ黒で皮膚につやが無く、手も足も骨と皮ばかりにやせ細っていたからです。そのため頭が大きく見え、眼がギョロギョロと輝いていてました。船の乗組員は「火星人だ。まさしく人間ではない。火星人だ」と思ったそうです。

 2月11日、11万の大兵力を満載した486隻の米大艦隊はサイパンに集結していました。13日、米機動部隊が北上。14日硫黄島作戦牽制のため本土を直撃する別働隊が北上。日本側は米軍は沖縄に来ると予想していました。16日になって硫黄島に来ることを知ります。
 硫黄島の兵士たちは妻子の写真を焼き払い、決戦に備えてました。16日午前7時、米艦隊は硫黄島に向け、いっせいに砲門を開きます。17日午前10時半頃砲撃が止まり、米駆逐艦と大型砲艦艇約20隻海岸に急進してきます。島の南端にある摺鉢山(すりばちやま)砲台は米の集中砲爆撃で崩壊寸前となっていました。「敵を揚げて叩く」栗林戦法を守っていたのでは自滅の恐れがあり、一矢報いることを決断します。健在な砲を米艦艇に向け砲撃を開始。米艦艇は無数の命中弾を受け、火を吹き、沈み、乗組員多数が吹っ飛びました。

 17日夕刻から続々と米船団は集結します。硫黄島は南の島だというのにさんご礁の砂浜も緑の椰子もなく、異様な形の摺鉢山と低く黒い断崖と砂浜が続いているだけの島です。島へ砲撃すると島から吹き上がるのは茶褐色の土煙だけでした。上陸を前にした米兵はこう言いました。

ブラック・デス・アイランド


参考文献
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 朝日文庫 「硫黄島玉砕」多田実(著)
 文春文庫「硫黄島 魂の記録 名をこそ惜しめ」津本陽(著)
参考サイト
WikiPedia「硫黄島の戦い」

添付画像
硫黄島地上作戦を支援する米F6Fヘルキャット(PD)

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