神武天皇畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのみささぎ)
古来より、わが国の美称として、「豊葦原瑞穂国」と言ってきましたが、正式には、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国」(とよあしはらの ちあきのながいほあきの みずほのくに)と言い、千年も五百年も悠久に続く、 稲穂の実る美(うま)し国という意味でもあります。
建国以来、我国は皇尊(すめらみこと・天皇陛下)による慈愛と和の国でした。
紀元前660年2月11日(皇紀元年)初代神武天皇が畝傍山の東南、現在の橿原神宮に都を開かれるにあたり、詔を発せられた。この「即位建都の詔」に、以来連綿として継承される日本国の理念と天皇の御心を伺う事ができます。
即位建都の詔
「夫(それ)大人(ひじり)の制(のり)を立て、義(ことわり)必ず時に従う。苟(いや)しくも民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば何んぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)わん。且た当(まさ)に山林を披(ひ)き払い宮室(おおみさ)を経営(おさめつく)りて恭みて宝位(たかみくら)にのぞみ、以って元元(おおみたから)を慎むべし。」
「夫(それ)大人(ひじり)の制(のり)を立て、義(ことわり)必ず時に従う。苟(いや)しくも民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば何んぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)わん。且た当(まさ)に山林を披(ひ)き払い宮室(おおみさ)を経営(おさめつく)りて恭みて宝位(たかみくら)にのぞみ、以って元元(おおみたから)を慎むべし。」
「大人(ひじり)の制(のり)を立て」とは、正に天照大神から連綿とつづく「神の子」の自覚と、謙遜の徳を表わし、「苟(いや)しくも民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば」とは、国民の利益になることが大前提とお考えであり、「民の為の政治」の原則を謳う詔です。
天皇政治下の民主政治であり、神武天皇の御心は歴代の天皇に受け継がれ、
第16代 仁徳天皇
「高き屋にのぼりて見れば煙り立つ 天のかまどは賑わいにけり」
「高き屋にのぼりて見れば煙り立つ 天のかまどは賑わいにけり」
まず、国民がちゃんと食べるものがあるかどうか、ご飯の用意をするかまどの煙にも御心を使われ、そのかまどから立ち昇る煙を見られ読詠まれた御製です。
第56代 清和天皇
「災いは偶然に起きるものではない。みな朕の不徳の致すところからである」
肥後の国熊本地方で起きた洪水に際して、天災さえもご自身の不徳から国民を苦しめたのだと、心より反省なさっている大御心です。
第59代 宇多天皇
「天をうらまず、人をとがめず、神を責めず、朕が不徳の致すところである。」
「国を富ますはただひとつ、体を臣民にあわせるのみである。」
やはり、当時に起きた洪水や疫病の蔓延にお心を痛められての玉音です。
自分の考えを国民に押し付けるのではなく、あくまでも国民の立場になって心を合わせなければならないと話されている記録があります。
第122代 明治天皇
「罪あらば吾をとがめよ天津神 民はわが身の生みし子なれば」
大逆を侵そうとして捕らえられた、社会主義者たちのことを詠まれた、明治天皇の御製。
自分を害しようとするものでさえ、自分の子であると庇う心をお持ちなのが、天皇陛下という存在なのだと、臣民は知るべきです。
聖徳太子は7世紀に、十七条憲法を制定しました。これは、日本で初めての成文憲法であり、また世界最古の憲法とも言われます。
太子の憲法には、神話に伝えられ、大和朝廷に形作られた日本のお国柄と、それに基く日本の「公と私」のあり方が、よく表されています。
十七条憲法は、天皇陛下の統治を中心としつつ豪族が政治権力に参加する政治制度を説いています。その理念が「和」です。憲法は、第一条の「和を以て貴しとなし……」という言葉で始まり、以下の条文では私利私情や独断を戒め、話し合いに基づく政治を行うことを説いています。
憲法第15条に「私に背きて公に向かふは、是れ臣の道なり」(第15条)とあります。これはシナの「公と私」をよく表す『韓非子』の「ム(わたくし)に背くを公と為す」によく似ていまが、意味は、正反対です。
シナが支配と搾取の国であるのに対し、わが国は「君民一体」の国柄だからです。
第12条には、「国に二君なく、民に両主(ふたりのあるじ)なし。率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以って主とす」とあります。すなわち、国の中心は一つである、中心は二つもない。天皇陛下が国民統合の中心であるということです。
太子は、さまざまな氏族が土地と人民を私有していたのを改め、国土も人民もすべて天皇に帰属するという理念を打ち出したのです。そして、国民は、天皇陛下を主と仰ぎ、一方、天皇は「民」を「おおみたから」つまり大御宝としています。
第3条には「詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め」とあります。太子は、豪族・官僚たちが天皇陛下の言葉に従うように、記してあり、上記の十五条に、「私を背きて、公に向(おもむ)くは、是れ臣が道なり」とあります。すなわち、私利私欲を超えて、公共のために奉仕することが、官僚の道であると説いて再確認されておられます。
現在の為政者、官僚に欠けている精神の最もおおきな課題です。
先帝陛下、香淳皇后陛下
先帝陛下におかれましては、昭和52年8月の記者会見で、昭和21年1月1日・「年頭、国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)」について叡慮を賜っています。
現在、多くの日本人が民主主義は米国からの輸入したものであると思われていますが、世界最古の成文憲法、憲法十七条、五箇条の御誓文にもあるように、君臣一体となった世界に比肩なき、我国独自の民主国家であったのです。
一億総国民が涙した、『大東亜戦争終結ノ詔書』、玉音放送。
先帝陛下におかれましては、詔書の最後を次のように結ばれています。
先帝陛下におかれましては、昭和52年8月の記者会見で、昭和21年1月1日・「年頭、国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)」について叡慮を賜っています。
●「日本の民主主義は戦後の輸入品ではない」(昭和52年8月の記者会見)
記者 ただそのご詔勅の一番冒頭に明治天皇の「五箇条の御誓文」というのがございますけれども、
これはやはり何か、陛下のご希望もあるやに聞いておりますが………
天皇陛下 そのことについてはですね、それが実はあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそういうことは二の問題であった。
それを述べるということは、あの当時においては、どうしても米国その他諸外国の勢力が強いので、それに日本の国民が圧倒されるという心配が強かったから。
民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。
そうして、五箇条の御誓文を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあったと思います。
それで、特に初めの案では、五箇条の御誓文は日本人としては誰でも知っていると思っていることですから、あんなに詳しく書く必要はないと思っていたのですが。
幣原が、これをマッカーサー司令官に示したら、こういう立派なことをなさったのは感心すべきものであると非常に賞讃されて、そういうことなら全文を発表してほしい、というマッカーサー司令官の強い希望があったので、全文を掲げて、国民及び外国に示すことにしたのであります。
記者 そうしますと陛下、やはりご自身でご希望があったわけでございますか………
天皇陛下 私もそれを目的として、あの宣言を考えたのです。
記者 陛下ご自身のお気持ちとしては、何も日本が戦争が終ったあとで、米国から民主主義だということで輸入される、そういうことではないと、もともと明治大帝の頃から民主主義の大本、大綱があったんであるという………
天皇陛下 そして、日本の誇りを日本の国民が忘れると非常に具合が悪いと思いましたから。
日本の国民が日本の誇りを忘れないように、ああいう立派な明治大帝のお考えがあった
ということを示すために、あれを発表することを私は希望したのです。
『陛下、お尋ね申し上げます』(高橋紘+鈴木邦彦、徳間書店)より
畏くも先帝陛下は終戦から國民を励まされると同時に、遠い未来を見据えておられあそばされておられたのです。
日本人が誇りを失わないようにと・・・
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昭和20年8月15日 宮城前(皇居)
一億総国民が涙した、『大東亜戦争終結ノ詔書』、玉音放送。
先帝陛下におかれましては、詔書の最後を次のように結ばれています。
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ(訳)
余はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実とまごころを信頼し、常に汝ら臣民とともにある。もし、事態にさからって激情のおもむくまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、互いに情勢を悪化させ、そのために天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、余のもっとも戒めるところである。
そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。汝ら臣民、以上のことを余が意志として体せよ。』
この詔勅にこめられた陛下の日本国民への期待と激励と痛恨の想いを、いったいどれだけの臣民が、戦後、おぼえているでありましょうか。
親のこころ子知らずと申しますが、まさに、戦後日本の臣民は親不孝者であります。
「挙国一家、子孫、相伝え、よく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きをおもい、総力を将来の建設に傾け、道義を篤(あつ)くし、志操を固くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運におくれざらんことを期すべし。汝臣民、それよく朕が意を体せよ』とあるが、この大御心は戦後、今日まで臣民は無視されてきたことがわかります。
確かに『総力を将来の建設に傾け』『世界の進運におくれざらんことを期す』という所だけは経済大國となった今日をみれば必死になってやってきた。
ところが、だれも『神州の不滅』など忘れ、『道義』も軽んじられ続けた。『志操』も捨て、『國体の精華』という言葉すら、殆どの国民が知らず、精神性を捨て去ってきました。
物質的な建設と、世界の流行に遅れるまいとする姿だけ肥大し、我欲にまみれ、精神にかわることを、捨ててしまいました。
『神州日本の不滅』『道義』『志操』『國体』という意識を、とりもどさないと、この先、國は亡国するかもしれません。
まっとうな民族意識と国家意識を、復活させることは可能なはずです。それが『国体の精華を発揚』するということです。
民族意識こそ、國家にとって民族にとって、最大最強の武器です。だから、戦後、連合国は、まず最初に日本の「民族意識」を失くさせようとしたのです。
神道指令、教育勅語廃止、で君臣の固い紐帯を、占領憲法によって軍隊を奪い、お国柄を無力化し、一旦緩急[いったんかんきゅう]あれば義勇公に奉ずる世界に類をみない精神力を発揮する「やまと魂」を封じ込めたのです。
私たちは日本人です。
日本人は日本人の原点に回帰すべきです。
「誇り高き日本」へ・・・・・陛下の大御心の下(もと)へ・・・
神道指令、教育勅語廃止、で君臣の固い紐帯を、占領憲法によって軍隊を奪い、お国柄を無力化し、一旦緩急[いったんかんきゅう]あれば義勇公に奉ずる世界に類をみない精神力を発揮する「やまと魂」を封じ込めたのです。
彼らがもっとも恐れたのは、我国の軍事力は勿論、それを支えつづけた日本人の民族意識・臥薪嘗胆に代表される精神力だったことが、お解りいただけるでしょう。
日本人の精神力を骨なしにし、アメリカに魂を売らせることが、最大の武装解除を意味しました。
今度は中国、韓国、北朝鮮にも魂を奪われつつあります。
だからこそ、失いつつある日本の魂を取り戻さなければならない。
それこそ先帝陛下の大御心に報いることではないでしょうか?
私はこの記事を書きながら先帝陛下ががどんな想いで起草あそばされ、読まれたか、想像するだけで目頭が熱くなり、涙がとまりませんでした。
今一度、日本國臣民は、終戦の詔(みことのり)、「年頭、国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)」を深く胸に刻み、噛みしめて欲しいと願うのであります。
私たちは日本人です。
日本人は日本人の原点に回帰すべきです。
「誇り高き日本」へ・・・・・陛下の大御心の下(もと)へ・・・