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明治37年5月、日露戦争の戦地でのこと。
歩兵第三連隊の第八中隊でロシアの捕虜の見学者を募ったところ、あまり兵卒が希望しませんでした。不思議に思った中隊長自ら問い質してみると、金子亀作という一等卒がこう答えました。
「自分は在郷のときは職人であります。軍服を着てからは日本の武士であります。どこのどういう人かは知りませぬが、武士であるものが敵ながら運拙く捕虜となって彼方此方と引廻され、見世物にされること、さだめて残念至極でありましょうと察せられ、気の毒でたまりませんから自分は見学に行って捕虜を辱めたくはありません」
この金子一等卒の心ばえに感動した中隊長は、
「全く同感である。武士は相身互い、ゆえに捕虜見学に行かないことに決定する」
と申し伝えました。
見学を希望した兵卒達も、金子の言葉を聞いてハッと我に返って、言われて見ればそうだったとたちまち同意しました。これは、皆がそうしたものを心の底に持っていたからこそでした。
また、当時日本軍はロシア軍の後方かく乱のため、ロシア国境近くの鉄道を爆破せんとして捕らえられた横川省三、沖禎介の二人は自ら銃殺刑を望み、所持金の全てをロシアの赤十字に寄付すると申し出て、並みいる武官を感動させました。
二人のこの堂々とした態度は当時のフランス、スイス、支那の新聞にも載り、世界の人々に感銘を与えました。処刑の執行官であったシモーノフ大尉は、昭和9年12月、横川の遺族を盛岡に訪ね、遺児に対面して号泣したといいます。
そして、明治天皇。
日露戦争の開戦から終戦までの約2年間、明治天皇はほとんど宮中からお出になられず、戦地の状況をたとえ深夜であろうが報告するように指示されました。
そして戦地の兵士を思いやる歌を多く詠まれました。
開戦と同時に明治天皇は戦地の兵士たちを思い、ストーブを取り外されて、いかに冷え込む時でも手あぶりしかお使いになられませんでした。
しぐれして 寒き朝かな 軍人すすむ 山路は 雪やふるらむ
夏にはどんなに暑くても軍服をお脱ぎにならず、団扇も一切お使いにならずに御学問所で休憩もなく政務を執り続けられました。
暑しとも いはれざりけり 戦の場に あけくれたつ 人思へば
日露戦争の戦死者は八万八千余柱にのぼりましたが、明治天皇は戦死者の写真と名簿のすべてに目を通されたといいます。
日露戦争を勝利に導いた東郷元帥も、乃木大将も、黒木大将も、大山大将も、
みな「陛下の御威徳によって勝つことが出来た」と述べています。
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