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平成7年、阪神淡路大震災で被災した子供達30名が夏休みを利用してポーランドに招かれました。なぜ、ポーランドは日本の子供たちを労わってくれたのでしょうか。
平成23年3月11日に起きた東日本大震災の後の7月24日から2週間、被災した岩手県や宮城県の子供たちがポーランドへ招かれて「絆の架け橋」プロジェクトに参加しました。
この時、子供たちは初めてポーランドと日本の本当の歴史を知ったのです。・・・
1795年、東ヨーロッパに君臨していた伝統的王国ポーランドはプロイセン、ロシア、オーストリアに国土を3分割にされてしまいました。何としても国土を取り戻したいポーランドの有志たちは地下に潜って独立運動をしました。しかし、その都度逮捕されて、流刑の地シベリアに送られてしまいました。
ここからが祖国を失ったポーランド人の苦難の始まりでした。いつか必ず祖国を取り戻したい、と思いながら絶望を堪えていました。
130年が経った第一次世界大戦後、ベルサイユ条約でついにポーランドは独立を回復しました。しかし、ロシアで革命が起こりソ連が誕生しましたが、今度はポーランドとソ連の間で戦争が始まったため、シベリアに居たポーランド人は帰れなくなってしまいました。世界に向かって救援を要請しますがうまくいきません。その間にも飢餓と伝染病が孤児たちの命を奪っていきました。
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こういう時、手を貸してくれた国が日本でした。日本赤十字とシベリア出兵していた帝国陸軍の兵士が酷寒の中、直ちに救出活動を行いました。最初の救出は救出決定から2週間後に56名の孤児を東京の宿舎に届けました。以後、3年の間に765名の孤児を救出しました。(上と下の写真)
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救出したものの、ほとんどの孤児たちは重い伝染病と飢餓で衰弱しきっていました。看護婦の松澤フミさんは、腸チフスで衰弱していた子供の看護にあたっていました。「せめて最後は私の胸の中で」と子供を抱いて寝ていたため、自分が腸チフスに感染して亡くなってしまいました。(下の写真)
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日本中から多くの寄付金が集まりました。大正11年には貞明皇后が日本赤十字社病院に行啓され、奉迎する孤児たちの頭を幾度も愛撫し、胸に抱きしめて孤児たちを激励されました。そして「健やかに育つように」とお言葉を賜れました。
こうして健康を回復した子供たちから祖国ポーランドへ送り届けられることになりました。横浜から出港する時になって、今まで愛情をもって父となり母となって面倒を見てくれた日本人の大人たちに孤児たちは泣いて乗船を嫌がったといいます。
孤児たちは日本で覚えた「君が代」を斉唱しながら、日本を離れていきました。(下の写真)
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この救済活動からちょうど75年の平成7年、日本で阪神淡路大震災が起きました。
ポーランドの人たちは直ちに日本の救援活動を行いました。
ポーランドの人たちは大正の日本人への恩を忘れずに感謝の気持ちを心に刻んでいたのです。
大正時代に孤児を救済した日本にポーランド極東委員会副会長はこのような手紙を日本に送ってきました。
日本人は我がポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。
日本はポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。
しかし、日本は我が不運なポーランド児童達に深い同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれました。我々ポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。
我々児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本の子供たちが、孤児たちの服装のみじめなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、指輪までもポーランドの子供たちに与えようとしていた。ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、我々はいつまでも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。
ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感恩、最も温かき友情や愛情を持っていることをお伝えしたい。
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