平成16年、小泉首相の頃、長らく靖国神社の宮司を務められた湯澤貞宮司の後任をどうするか問題になったことがありました。
靖国神社は占領政策で国家管理から宗教法人となったとはいえ、国家のために亡くなられた方々の戦没者追悼の中心であり、その責任者である宮司には、それにふさわしい経歴と人格が求められました。靖国神社の宮司ともなれば、政治家たちとの付き合いや、内外メディアやシナ・韓国への対応にも迫られ、しかも国家の支援がない中で神社を維持させるのは大変なことでありました。神社界や自衛隊OBなど、広く検討されましたが決まりませんでした。
湯澤宮司が和歌のご指導を頂いていた坊城俊周さんにご相談すると、霞会館理事長の久邇邦昭さんを通じて、南部藩45代当主 南部利昭さんをご推薦いただきました。南部さんは長く民間企業に努めており、当時は定年を迎えていましたが、さすがに靖国神社の宮司は大変な仕事であることはご存知であり、お引き受けするがどうか迷っていました。
平成16年6月5日、「霞会館創立130年記念午餐会」が開かれ、天皇皇后両陛下が行幸啓されました。この時、天皇陛下から「南部さん、靖国神社をお願いします」というお言葉を頂きました。
それから3カ月後、第九代宮司に就任された南部さんは、9月24日に開催された「靖国神社新旧宮司挨拶会」で、「陛下より、『靖国神社をお願いします』とのお言葉を賜った。陛下が『お願いします』と仰せになったからには、これは勅命である。それで宮司就任を決意した」と宮司就任の経緯をお話をされました。
今上陛下は、全国の護国神社に対しても地方行幸啓の折りには必ず、各神社の宮司をご宿泊のホテルにお呼びになり、その各都道府県の旧官国弊社とともに幣饌料をご下賜になっています。
終戦50年の平成7年、全国の護国神社52社が8月15日に終戦50年臨時大祭を斎行することとなり、陛下は特別の思し召しを持って幣帛料を宮内庁掌典長から全国護国神社会会長にご下賜になられました。
翌、平成8年、全国の護国神社の宮司がそのお礼に皇居に参内し天皇皇后両陛下に拝謁した際、天皇陛下は全国の護国神社の宮司に対し、次のようにお述べになりました。
「先の大戦が終わってすでに50年を経ましたが、その間、それぞれの護国神社の祭祀にたゆまず奉仕され、遺族の心の支えになってきたことを誠にご苦労に思います。どうかくれぐれも体を大切にされ、今後とも遺族を助け、護国神社のお守りをしていくよう願っています」
終戦50年にあたる平成7年、国会では「我が国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」という、村山談話を発表しました。この談話には戦後の復興を担ってきた戦中派や遺族の人たちにとって大きなショックを受けました。
歴史観の問題には自ら見解を述べるわけにはいかない陛下ではありますが、ことは昭和天皇のことでもあります。政府自ら侵略戦争発言を繰り返し「日本兵は侵略戦争の手先だった」と非難し、遺族たちの気持ちを逆なでする現状に陛下は心を痛められておられたのかもしれません。
政府が謝罪外交をしている最中、両陛下は「慰霊の旅」と称して、広島、長崎、沖縄、東京へと、戦災の激しいところを行幸啓され、戦没者や戦争犠牲者を追悼され、遺族たちを慰められたのです。
「今年は戦争が終わって50年という節目の年に当たり,戦争の災禍の最も激しかった長崎,広島,沖縄,東京を訪れ,また,8月15日の戦没者追悼式に臨んで,戦禍に倒れた人々の上を思い,平和を願いました。また,今年は硫黄島やハバロフスクで慰霊祭が行われました。
希望に満ちた人生に乗り出そうとしていた若い人々が戦争により,また,厳しい環境の中で病気により亡くなったことを深く哀惜の念に感じます。今日の日本がこのような犠牲の上に築かれたことを心に銘じ,これからの道を進みたいものと思います」
このお言葉は、平成7年の陛下の記者会見でのお言葉です。同じ年に出された村山談話とは全く歴史観を言われていることにお気づきでしょう。
ここに陛下の強いお気持ちが伺えるのではないでしょうか。
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”国のため尽くさむとして戦に傷つきし人のうへを忘れず”
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