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[転載]「バリ島の父」と呼ばれた日本人

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三浦襄



産経新聞「忘れ難き偉人伝」にバリ島の父と呼ばれた三浦襄(じょう)翁の記事が記載されていました。原文のままご引用します。

終戦後の昭和20年秋、インドネシアのバリ島で、一人の日本人の葬儀が行われた。「バパ・バリ」(バリ島の父)と呼ばれた三浦襄(じょう)。葬列には8人の領主や16人のヒンズー教僧正ら有力者の後に、住民が続き、1万人以上が死を悼んだ。

「『日本人は戦争に負けたら、腹を切るものだ。それが武士道。日本人はその覚悟で戦争に臨んでいる』と説いてきた。だが、だれも自決する者がいないではないか。これでは嘘つきだということになり、今後バリの人たちは日本人と日本を信用しなくなる。バリにいる日本人を代表して自決する」

この言葉を残し、9月7日、拳銃でこめかみを撃ち抜き、自決した。

明治21(1888)年、仙台市で牧師の次男として生まれた三浦は、キリスト教伝道と商いを兼ねた南洋商会に入会し、ジャワ島に渡航する。その後、商売優先の姿勢に疑問を感じ脱会。セレベス島のトラジャでコーヒー園を経営するが、世界不況のあおりを受け、倒産する。事業に向かないことを悟った三浦はバリに移住し、自転車店を始めた。暑くてもネクタイを締め、黙々と油にまみれて働く姿に住民たちが徐々に心を開き、「トコ・スペダ・トワン・ジャパング」(自転車屋の日本人のおじさん)と親しまれるようになった。

しかし、昭和16(1941)年の開戦で状況は一変。オランダ政府はインドネシアの日本人を検挙し、自転車店で働いていた2人も収容所に送られた。一時帰国していた三浦は難を逃れるが、17年1月25日、53歳の三浦に召集令状が届く。地元住民との架け橋になれる三浦の力が必要だった。

同年2月19日、陸軍第48師団とともにバリのサヌール海岸に上陸。三浦は領主を説得し、一人の犠牲者も出さずに、軍政となった。

バリを統制する民政部職員になることを要請されるが、行政の立場ではなく、民政部長官の顧問として、住民との間に立つことを望み、「バリ人を登用し自由な経済組織をつくること」や「人頭税の撤廃」などを提言。

そしてことあるごとに、「日本はインドネシアを独立させる」と話して回るようになった。

昭和17(1942)年、日本の軍政下となったインドネシア・バリ島。明日は戦地に赴くかもしれない日本軍兵士と住民の間には深い溝があり、不平不満が渦巻いていた。バリ島の父と呼ばれた三浦襄(じょう)(1888~1945年)の自宅には住民からの相談の列が壁の外まで続く。内容は軍政の不満から夫婦げんかの原因までで、三浦は親身になって聞いた。

民政部顧問から嘱託となり、自由の身となった三浦は軍に食料を調達しながらも、住民の生活を守るため「バリ畜産会」を設立。月1万5千頭の牛豚を扱い、住民数百人が働く企業に成長する。植民地下で搾取されるだけだった住民は「日本人が指導すればわれわれもできる」と自信を持ち、三浦の存在感は高まる一方だった。さらに、余った牛骨を加工し、歯ブラシやボタンを作る「三浦商会」を立ち上げ、畑もない貧しい人々を雇い、生活を助けた。

戦局の悪化に伴い、バリでも郷土防衛義勇軍の募集が始まる。「われわれと一緒に戦い、連合国を破り、君たちの祖国を独立に導きたい。バリ島はバリ人の手によって守らねばならない」と呼びかけた。約1000人が応募し、昭和18年4月、選考された500人から成る義勇軍が結成された。この若者たちが日本敗戦後のインドネシア独立戦争の主力に成長、独立の礎を築くことになる。


体調を崩した三浦は周囲の勧めもあり、帰国を決意するが、「半年したら帰ってくる。バリ島で死にたい」と言い残し、後ろ髪を引かれる思いで船に乗り込んだ。体重が激減し、がんとみられている。

19年、日本軍はますます押し込まれ、もはや療養どころではない三浦は日記にこう書き残している。

「死線を越え、原住民との約束、帰島履行せねば日本人の信用にかかわる。戦局、非なりといえども死が行く手に待ち構えていても使命は果たさねばならぬ」

三浦帰島の知らせはたちまち島中に行き渡る。「バパ・バリ ダタン ラギ」(バリ島の父が再び戻った)。バリは歓呼の声に包まれた。

昭和20(1945)年7月17日、東京の最高戦争指導者会議で、インドネシア独立が決まった。バリ島に帰ってきた三浦襄(じょう)(1888~1945年)は「建国同志会」に唯一の日本人として参加、事務総長に就任。各地の講演で三浦の唱える「インドネシア・ムルディカ(独立)」の声は日増しに大きくなっていく。

だが8月18日、突然の知らせを受ける。日本の敗戦。その言葉を聞いた三浦は「やはり、そうですか」と消えるようにつぶやき、体を小刻みに奮わせた。翌日には「バリの人たちに嘘を言った。腹を切らなければならない」と自決の意を伝えた。

三浦は病を押し、日本敗戦を謝罪して回る。最後の講演会は9月6日夕刻、デンパサールの映画館前広場。上下白の背広姿の男が姿を現すと「バパ・バリ(バリ島の父)」の声が上がり、静まりかえる。

「日本人は約束を果たすことができませんでした。しかし、私はこの国の独立を信じています。この国の進むべき道は、みなさんの祖国愛に燃える団結と前進あるのみです。私は全日本人にかわってこの地に骨を埋めて独立を見届けるつもりです」

デンパサールの墓の脇に碑文があり、バリ人宛ての遺書が残されている。


「吾々は今まで絶えず諸君に日本精神を、武士道を、或(ある)いは犠牲的精神を説き、君国の為(ため)には喜んで死ぬこと、インドネシア独立の基礎は諸君の犠牲の血であり肉であらねばならぬことを強調してきた。

更(さら)に日本人が断言せる事は、必ず断行すると言う事実を諸君の前に示すことは、この三年有半育成せられたる諸君の覚醒せる精神に、更に一段の向上進歩を遂げしむる最期の教訓であることを私は信じるものである。

今私は穢(けが)れてしまった肉体をかなぐり捨てて、清く正しい憐憫(れんびん)と感謝に満つる霊魂となりてバリ島に止まり吾が敬愛し親交せる一三〇万同胞の繁栄と幸福とを祈り念ぜんとするものである。諸君よさようなら。

皇紀二六〇五(西暦一九四五)年九月七日午前六時 バリ島一三〇万兄弟諸君  三浦 襄」

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三浦翁は、軍人ではなく、軍属でもありません。恩給も、遺族には支払われていません。

三浦翁は、いち日本人として、なんの栄誉も個人的利益も求めず、ただ祖国とインドネシアの友好のために、粉骨砕身し、最後は自らの言葉に生命をもって償なわれたのです、誇りある日本人として。
三浦翁の自決より約半世紀以上になる今日、バリ島は”神々の住む島””地上最後の楽園”等と賛辞を贈られていますが、「バリの歴史」現在の伝統文化の築き上げられてきた過程に、一人の日本人が、遠く離れたバリの地で小さな身体を大きく大きく広げて生きていたことを、私達は同じ日本人としてまた、人間として誇りに思い、三浦翁のみならず、先人の生き様を後生の日本人に語り継いでいくことこそ現世の我々の使命ではないでしょうか?。

拙記事をご覧の皆様が、インドネシアのバリ島、デンパサール市に行かれたなら、是非、三浦翁の墓地にお参りをして頂ければと思います。



転載元: 美し国(うましくに)


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