2013-01-19
ペリーは恫喝外交をおこなったのか
かつて日本は美しかった誇りある日本、美しい日本へ
平和的交渉とは言えなかった。
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀沖にアメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(同)の四隻です。大砲は計73門あり、情報では海兵隊も乗船しているといいます。江戸幕府は黒船艦隊が来ることをオランダから情報を得て知っていました。平和的な目的で来日するといいます。黒船艦隊に応対した浦賀奉行所の与力・香山栄左衛門は、大統領書簡と信任状をいれた二つの箱を見て、こう述べました。
「たった二箱の船荷のために大艦隊を組んできたのか」
時代背景を見るとアメリカは原住民(インディアン)を追い落とし、メキシコと戦争し勝利し、カリフォルニア地方を奪い取り、西海岸まで到達しました。アメリカは野蛮人たちに文明と呼ばれる生産技術とその成果としての製品を教えて、文明の恩恵に浴させ、キリスト教を広めることに熱意を傾けていました。「マニフェスト・デスティニー」といい、それがアメリカの使命だとアメリカ人は考えていました。
ペリー提督が海軍長官あてに書いたメモ。(1852年)
「メキシコからカリフォルニア地方を獲得したアメリカは、西海岸を越えて太平洋における領土拡大競争の場へ突入する」
「神は、文明開化の方法によってであれ、その他の方法であれ、アメリカ合衆国に対し、この風変わりな日本人を万国(nations)の一員とする先導役を指名した」
ペリーは完全に上から目線で日本を見ていたわけです。そしてペリーは太平洋に蒸気船航路を確立し、太平洋における商業・貿易を軍事力で統制することを目指しました。ただ、アメリカでは宣戦布告は議会に権限があり、アメリカ大統領フィルモアはペリーに「発砲厳禁」を命じています。
大統領の「発砲厳禁」の命令があったとしても大艦隊の威容は相当な圧力になります。礼砲を撃つだけでも威圧はかなりのものです。また、自衛のための発砲は許されています。ペリーは浦賀にやってくると海の深さを測定しはじめました。日本の法律では禁じているとあらかじめ通告したのにかかわらず挑発してきたのです。
大日本古文書 幕末外国関係文書之一
「蒸気船一艘江戸の方へ向かい駆出す、先へはバッテイラ4艘もて、海の深浅を測量しながら行く、川越の手にて差留候処、剣を抜船ふちに顕れ、寄らば斬らんとする仕方を致し駆通り、或は剣付鉄砲に真丸を込、故方船の二三間先を頼りに打をとかし駆通候、川越人数怒りに不堪早船にて浦賀へ問合せ、只今乗込候異船軽侮の致方忍び難き儀也、切しつめ申すへきとの事、浦賀にて、御尤もには候へ共、御内意は何れにも穏便との儀に有之、且つ又彼一艘切しつめ候とも、事済候と申にも無之、諸家申合行届かす、粗忽に手出し致し、却って兵端を開候ては恐入候間」
川越藩のものが測量を中止させようとすると、剣を抜いて挑発し、小銃弾を威嚇のために撃ってきたのです。堪忍ならず、浦賀へ問い合わせたところ、手を出して戦争になるようなことがあってはならない、と隠忍自重を申し渡されたのです。軍事力では勝負になりません。堪えるしかなかったのです。
ペリー自身が脅しをかけたこともあります。二度目の来航のときです。幕府の応接掛が来るのが遅いので苛立って浦賀奉行の黒川嘉兵衛に次のように言っています。
「条約の締結が受け入れられない場合、戦争になるかもしれない。当方は近海に50隻の軍艦を待たせてあり、カリフォルニアにはさらに50隻を用意しており、これら100隻は20日間で到着する」
ペリー日誌にも「脅し」とはっきり書いたところがあります。アダムス参謀長が浦賀の応接会場を視察したときのことです。
「アダムス参謀長の今回の訪問で、好ましい結果が得られるとはまず期待できなかった。そこで手っ取り早く成果を引き出すため、脅迫を実行することにした。参謀長が留守の間に、艦隊を湾の奥に前進させ、江戸がこの目で見える地点にまで達したのである。その夜は、市中で打ち鳴らされる鐘の音が、マストの先端からはっきり聞こえるほどだった」
林大学頭との応酬でもペリーは「戦争」をちらつかせています。漂着した外国人の扱いが非人道的であると批判している話の中で次のように言っています。
「我が国のカリフォルニアは、太平洋をはさんで日本国と相対している。これから往来する船はいっそう増えるはずである。貴国の国政が今のままであっては困る。多くの人命にかかわることであり、放置できない。国政を改めないなら国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決する準備を整えている。我が国は隣国のメキシコと戦争をし、国都まで攻めとった。事と次第によっては貴国も同じようなことになりかねない」
これに対して林大学頭は日本が非人道的であることは誤りであると反論しています。
「戦争もあり得るかもしれぬ。しかし、貴官の言うことは事実に反することが多い。伝聞の誤りにより、そのように思いこんでおられるようである。我が国は外国との交渉がないため、外国側で我が国の政治に疎いのはやむをえないが、我が国の政治は決して反道義的なものではない。我が国の人命尊重は世界に誇るべきものがある。この三百年にわたって太平の時代がつづいたのも、人命尊重のためである」
このようにペリーは日本を未開の国と見下し、圧倒的軍事力を背景に恫喝と挑発を交えながら江戸幕府と交渉していったのです。
参考文献
ちくま新書「幕末外交と開国」加藤祐三(著)
ハイデンス「ペリー提督と開国条約」今津浩一(著)
小学館「ペリー提督日本遠征日記」M・C・ペリー(原著) / 木原悦子(訳) / 童門冬二(解説)
添付画像
日本の版画に描かれたペリー 嘉永7年(1854年)頃(PD)