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狂気が先行した東京裁判

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東京裁判は文明の裁きではない。

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 昭和20年(1945年)日本敗戦後、東京裁判が行われました。正式には「極東国際軍事裁判」と言います。昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われました。戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。

 東京裁判では昭和天皇は訴追されていません。これは天皇・マッカーサー会談で連合国最高司令官マッカーサーが昭和天皇の態度を見て感激し、天皇を残すことを決めたという話があります。そういう部分はあったと思いますが、実際はOSSというアメリカ戦略情報局によってほぼ決まっていた規定路線だったことがわかっています。マッカーサーはこれに従っているだけです。天皇を利用して日本統治を進めようとしたのです。

 しかし、ソ連とオーストラリアは昭和天皇を裁くべきと主張しました。ソ連は日本国内を混乱に落としいれ共産化したかったと思われます。オーストラリアは人種差別的意識からではないかと思います。ウェッブ裁判長(豪)も同調していました。

 オーストラリアは昭和21年(1946年)1月に62名の戦犯リストを提出しています。この中に昭和天皇の名前がありました。これにはオランダ、ベルギー、ニュージーランドが同調し、イギリス、中華民国、ノルウェーは反対しています。

 この前年の昭和20年(1945年)11月に米国の統合参謀長会議はマッカーサーに極秘通達を送っています。

「天皇は戦争犯罪人として逮捕、裁判、処罰から免れていない、というのが米国政府の態度である。天皇抜きでも占領が満足すべき形で進行し得ると思われる時点で、天皇裁判問題が提起されるものと考えてよかろう」

 規定路線として天皇を利用して統治を進めるものの、それが軌道にのれば天皇訴追を考えてもいいのではないか、というものです。しかし、マッカーサーは東京裁判に対してかなりの部分で否定的だったので、オーストラリアが天皇を訴追すべきとしたとき「そのような証拠は何もない」とし、「もし天皇を裁判に付そうとすれば、占領計画に大きな偏向を加えなければならず、占領軍の大幅増強が絶対不可欠となるだろう。最小限にみてもおそらく百万の軍隊が必要となり、無期限にこれを維持しなければならない」と反論し、この議論には終止符がうたれました。

 これらの話もドイツを裁いたニュルンベルクの憲章自体も、それを東京裁判に持ち込んだりするのも、この頃は文明とは思えない狂気が先行していたと感じますが、意外にもマッカーサーはこの点では比較的冷静だったようです。

 東京裁判の判事・インド法学者パール博士は「パル判決書」というのを書き上げています。日本語に訳して88万5000字あまりの大文章です。堂々と「日本無罪」を主張した「パル判決書」は次の言葉で締めくくられています。

 時が熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、
 また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取ったあかつきには、
 そのときこそ、正義の女神は、
 その秤を平衡に保ちながら、
 過去の賞罰の多くに、
 そのところをかえることを要求するだろう。

 われわれ日本人はあの東京裁判が正義はあったのか。パール博士の言葉に耳を傾け、東京裁判とは何だったのかを正しく後世に伝えて行かなければなりません。



参考文献
 新潮選書「創られた東京裁判」竹内修司)(著)
中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ(編/序) 小菅信子(訳)
「歴史通」WiLL2009.10『野坂参三 共産政権の誕生』田中英道
小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
講談社学術文庫「共同研究 パル判決書」東京裁判研究会(編)

添付画像
裁判所が置かれた市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂(PD)

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