国際委員会は中立ではなかった。
昭和12年(1937年)8月の第二次上海事変は支那軍が崩れたことにより、南京への追撃戦へ移りました。11月、南京で国際委員会(ラーベ委員長)というのが作られ、中立地帯が作られます(安全区)。ここは非武装中立地帯ですが、実際は軍事施設があり、国際委員会は蒋介石に軍事施設を撤退するよう求めますが、守られず、日本軍も非武装地帯としては認めませんでした。ですが、松井軍司令官は攻撃しないように厳命し、実際に攻撃は行わず(誤って飛び込んでしまった砲弾はある)、12月13日南京は陥落しました。
ラーベ委員長 第一号文書 12月14日
「拝啓 貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことに対して感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります」
「拝啓 貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことに対して感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります」
安全区に女性子供を含む民間人は避難しており、南京陥落後も入り口には日本軍の歩哨が立ち無用のものの出入りを禁止しています。南京で民間人が大量虐殺されたなどということは全くありません。
ところが、ラーベ委員長は支那軍の将校を匿っていました。これは本来問題です。
ラーベ日記 12月12日
「夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した」
「夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した」
龍と周は支那軍の大佐です。安全区のラーベ邸に匿ったのです。安全区は中立地帯ではなかったということです。
同じく国際委員会のメンバーであるフィッチ師も支那兵を匿っていました。ラーベの裏の顔はドイツ軍事顧問団の連絡員でフィッチは妻が蒋介石夫人と親友です。このほかにも匿った人がいたらしく、支那軍の高級将校らは一般の兵士を見捨てて安全区にトンズラし、国際委員会の外国人が匿っていたわけです。国際委員会は「反日」であり、安全区は支那軍便衣隊の隠れ家になっていたのです。
これらの潜伏した支那兵の中には掠奪、煽動、強姦を犯すものがおり、日本軍が取り締まっています。委員のベイツ教授は、当初は日本の取り締まりに抗議しましたが、後に支那兵が「ならず者」であったこと認めて抗議をやめています。中には日本軍の名をかたっていたものもいます。
大阪朝日新聞 2月27日
「皇軍の名をかたり南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕らわる」
「皇軍の名をかたり南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕らわる」
チャイナ・プレス 1938年1月24日 日本憲兵隊の報告書より引用
「彼らの中には南京保安隊隊長王信労がいた。彼は陳弥と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。また第八十八師の前副師長馬包(あしへん)中将や南京警察の高官密信喜もいるといわれている。
馬中将は安全地帯内で攪乱行為の扇動を続けていたと言われる。また安全地帯には黄安大尉ほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ったまま匿われ、王信労と三人の元部下は略奪、扇動、強姦に携わったという」
「彼らの中には南京保安隊隊長王信労がいた。彼は陳弥と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。また第八十八師の前副師長馬包(あしへん)中将や南京警察の高官密信喜もいるといわれている。
馬中将は安全地帯内で攪乱行為の扇動を続けていたと言われる。また安全地帯には黄安大尉ほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ったまま匿われ、王信労と三人の元部下は略奪、扇動、強姦に携わったという」
国際委員会は日本兵の非行の話を日本側の外交官補の福田篤泰に訴えをいれますが、なんら検証することなく、すべてを事実として記録します。福田氏は当時を回顧してこう言っています。
「当時ぼくは役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務所へでかけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。
『いまどこどこで日本の兵隊が15,6の女の子を輪姦している』。あるいは『太平路何号で日本軍が集団で押し入り物をかっぱらっている』等。その訴えをマギー神父とかフィッチなど3,4人がぼくの目の前で、どんどんタイプしているのだ。
『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る』といくども注意した。時に私は彼らをつれて強姦や掠奪の現場にかけつけてみると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうこともいくどかあった」
『いまどこどこで日本の兵隊が15,6の女の子を輪姦している』。あるいは『太平路何号で日本軍が集団で押し入り物をかっぱらっている』等。その訴えをマギー神父とかフィッチなど3,4人がぼくの目の前で、どんどんタイプしているのだ。
『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る』といくども注意した。時に私は彼らをつれて強姦や掠奪の現場にかけつけてみると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうこともいくどかあった」
これらは国際委員会の61通の文書となりました。殺人は49件記されています。しかし検証したものはありません(国際委員会書記長スマイス博士証言)。仮に事実としても南京虐殺などとは程遠い話しです。そしてこの文書は支那国民党の宣伝本であるティンパーリーの「戦争とは何か」にも使われました。これらは支那人に金を握らせてウソの訴えをさせて、記録して抗日宣伝に使ったものや隠れている支那軍の便衣隊の仕業を日本軍の仕業にすり替えたものでしょう。国際委員会の実態は「反日」組織であり、支那国民党の宣伝部隊だったわけです。
参考文献
草思社「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
河出書房新社「日中戦争資料集<9>南京事件Ⅱ」日中戦争史資料編集委員会・洞富雄(編)
展転社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)
講談社文庫「南京の真実」ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
偕行社編「証言による南京戦史」
草思社「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
河出書房新社「日中戦争資料集<9>南京事件Ⅱ」日中戦争史資料編集委員会・洞富雄(編)
展転社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)
講談社文庫「南京の真実」ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
偕行社編「証言による南京戦史」
添付写真
南京の街で日本兵が買い物(昭和12年12月17日)(PD)
南京の街で日本兵が買い物(昭和12年12月17日)(PD)
南京陥落当時の貴重な映像(1of5)
http://www.youtube.com/watch?v=FMKZzZREqh8
http://www.youtube.com/watch?v=FMKZzZREqh8
南京陥落当時の貴重な映像(2of5)
http://www.youtube.com/watch?v=JZQTdOfUlck
http://www.youtube.com/watch?v=JZQTdOfUlck
南京陥落当時の貴重な映像(3of5)
http://www.youtube.com/watch?v=dS1KEvLgRUs
南京陥落当時の貴重な映像(4of5)
http://www.youtube.com/watch?v=IpYXmyAW_fw
南京陥落当時の貴重な映像(5of5)
http://www.youtube.com/watch?v=r-hCB4O49ms
http://www.youtube.com/watch?v=dS1KEvLgRUs
南京陥落当時の貴重な映像(4of5)
http://www.youtube.com/watch?v=IpYXmyAW_fw
南京陥落当時の貴重な映像(5of5)
http://www.youtube.com/watch?v=r-hCB4O49ms