保守(上)では右翼と左翼について述べさせていただきました。
平成24年12月26日、安倍内閣が発足しましたが、「誇りある日本」を取戻すことができるか否か、それほど重要な政権なのです。
しかし、どのような改革も、日本人が自らの伝統的な精神を取り戻し、日本人本来のあるべき姿に回帰し、「日本の精神」「やまと魂」を発揮することなくして、成功はありえません。
わが国の「右翼」「保守」は肇国以来、皇統を保守し、ごく自然にできたものです。
では、西欧での保守の淵源はどうでしょうか?
フランス革命(1789-99年)は、右翼・左翼を生み出しただけではないく、保守」を西欧に生み出したのです。「保守」とは、フランス革命に対抗するため、イギリスに現れた政治的態度です。フランスの急進的・暴力的な共和主義から、イギリス自生の君主制議会政治を守ろうとしたのが、西欧の「保守」の淵源です。
フランス革命は、わが国では自由・平等・人権の実現の始原とされ、日本国憲法の基本思想にも色濃く流れ込んでいます。「左翼」はフランス革命を近代市民革命の典型とし、それに比べてわが国はブルジョワ革命が十分達成されていないというのです。
しかし、実際のフランスは決して美化されるものではなく、ギロチンによる指導者同士の処刑、ヴァンデ地方での農夫・女性・子供の虐殺等、革命は200万人も犠牲を生んだと推算されています。
明治維新では僅かな流血で維新はなりました。この点においてもわが国と西欧とでは大きく異なります。
17世紀イギリスで、チャールズ1世は新税を強行しようとし、これに対し議会が反抗して革命が起こります。清教徒革命(1640-60年)です。国王は処刑され、共和制となり、ここでクロムウェルの独裁を行い、凄惨な内戦が行われた。クロムウェルの没後、秩序回復をめざし、王政復古がされた。しかし、再び王の横暴が行われたため、国王が交代され、「権利章典」を交わし国王の権力が規制されました。名誉革命(1689年)です。このような経緯により、イギリスでは「君臨すれども統治せず」という形式的君主制による議会制デモクラシーが確立されました。その後、イギリスの社会は安定し、世界に覇を唱えるほど、繁栄の道を歩んだのです。
イギリスで発達した近代政治思想は、欧州大陸の知識人に影響を与え、フランスでは絶対王政への反発から思想が急進化し、、ルソーや百科全書派らの思想によって、フランス革命(1789-99年)が勃発しました。イギリス同様、国王が処刑されて君主制が廃止され、共和制が実現した。ロベスピエールが登場して独裁が行われ、ギロチンによる処刑や反対派の殺戮が繰り広げられた。まるで140年ほど前のイギリスの悲劇の再演でした。
しかもフランスでは、科学的な啓蒙主義・合理主義が徹底され、人間理性を崇拝する思想が信奉されたのです。専制的な国王の主権(神のごとき国内最高権力)を奪い取った急進派が、人民主権を振り回し、人間の知恵と力への過信が、狂熱の嵐を巻き起こしていったのです。
大陸で革命が勃発すると、イギリスにも共和主義に同調する者が表れました。その中で、フランス革命を敢然と批判したのが、イギリスの政治家、エドモンド・バークです。
バークは革命の最中である1790年に『フランス革命の省察』を著しましたが、フランスやドイツなどでも翻訳されて読まれました。西欧諸国は、フランス革命の波及から自国の伝統・体制を守ろうとしました。バークの思想は、各国の「保守」の形成に影響を与え、それによって、バークは、「保守主義」の元祖とされているのです。
19世紀後半、わが国に近代西洋文明が押し寄せてきた時、この外来文明はフランス革命とそれへの対応を経た段階にあり、日本人は西洋列強から独立を死守する中で、日本的な「保守」を形成しました。ですから、われわれにとってもバークと西欧の保守主義には参考にすべき点があるのです。
『フランス革命の省察』でバークは、フランス革命を次のように見ています。貴族・僧侶による伝統的な秩序を打破して自己の利益を拡大するため、新興の貨幣所有階級が啓蒙思想家と手を組み、民衆を扇動して起こした破壊行動であると。いまや「騎士道の時代は永遠に過ぎ去り、詭弁家・守銭奴・計算屋の時代がそれに続くであろう」とバークは言う。しかし、「恥知らずの純粋デモクシー」たる暴徒の支配によって、最後は社会そのものの崩壊と荒廃にいたるだろうと予測したのです。
バークが守ろうとするのは、13世紀のマグナ・カルタ以来、400年、500年とかけて熟成されたイギリスの政体であり、伝統です。自由主義とデモクラシーの融合です。すなわち、権力の介入への規制と、民衆の権力への参加のバランスです。また、近代科学による知識と、人間を超えたものへの信仰との共存です。すなわち、理性と感情のバランスです。
バークは、イギリスでは国王と貴族と民衆、教会と国家、私有財産と社会的義務、自由と服従、理性と愛情などの諸要素が調和し、美しい統一的秩序を為していると説いています。この秩序ある体制は中世以来の騎士道精神と、宗教改革を経た国教制のキリスト教が結合し、長い歴史の中で生まれてきたものだとバークは主張しました。そういう祖先の英知をバークは尊重し継承しようとしたのです。
バークの主張の背後には、「知は力なり」と言ったF・ベーコン流の科学的楽観主義に対し、人間理性による進歩への懐疑があり、また人間は放任されると際限なく利己主義と無秩序に走るものであり、社会の秩序のためには権威と権力が不可欠だという人間観察があった。この点において、彼は同時代の哲学者ヒュームに通じています。
ヒュームは人知を過信した合理主義の矛盾や限界を指摘し、懐疑主義の哲学を説いた。その深い洞察は、啓蒙の完成者カントに大きな影響を与えた。ヒュームはフランスでの革命の到来を予見し、頭の中で考えた観念的な理論は破壊・混乱をもたらすことを警告していた。人間は現実的な経験を重んじ、歴史的に培われてきた英知を大切にすべきことを説いていた。
フランス革命は、誰もの予測を超えた展開を続け、ロベスピエールの恐怖政治は、テルミドールの反動で終焉を迎えました。ナポレオンがクーデタを起こし、王政よりさらに古い中世的な皇帝の座を持ち出し、希代の軍事的天才は周辺諸国の干渉をはねのけ、さらに周辺諸国に攻勢に出ました。この戦いは、17世紀のドイツ30年戦争以来の欧州大戦となりました。これは周辺諸国にとっては、侵攻戦争でした。破竹の勢いだったナポレオンは、ロシアの冬将軍に苦戦し、ワーテルローの戦い(1815年)で、イギリス中心の諸国連合軍はフランスを破りました。そして諸国は、フランスの急進的暴力的な思想から、既成の制度や各国の伝統を守ることに努めたのです。
その後、「保守主義」という言葉が一般化するのは、イギリスで1830年代初めにトーリー党が、「保守党」に改名したことによる。この時、「保守」は単なる守旧ではなく、「秩序ある変革の擁護者」という意味で名づけられた。続いて19世紀後半以降、西欧諸国で「保守」を名のる政党が多くなる。ちなみにトーリー党のライバルのホイッグ党は「自由党」となった。ここに「保守」と「リベラル」の対立の原型が生まれたのです。
西欧諸国の保守政党が維持しようとしたものの内容は、一様ではなく、各国の伝統や文化、事情が異なっていたからです。そのため、保守主義は、普遍的な政治理論を否定し、それぞれの固有文化の価値を主張することが多いのです。
しかし、保守主義の根底に共通するのは、フランス革命に対する批判でした。人間の知恵と力を過信した、近代西欧の啓蒙主義・合理主義・暴力主義に対する西欧人自身による反省であると言えましょう。そこには、近代西洋文明に対する一定の内在的批判を読み取ることが出来ます。
近代化とは「生活全般の合理化」(マックス・ウェーバー)です。それは、政治・経済・社会・文化のすべての分野で進行し、人間の心に変容をもたらす。政治的分野での近代化は、近代主権国家の成立、近代官僚制と近代デモクラシーの形成等です。その進行を全面的によしとしない考え方がある。ゲルマン民族の古来の慣習や、キリスト教の中にある宗教的価値観等を、政治的分野において保存していこうという考え方です。君主制はさらに古い祭祀王制度に起源を持ち、統治権の源泉は先祖や神に求められます。
近代化=合理化は、こうした前近代的なもの、近代人にとって非合理的なものを根絶やしにしようとするのです。近代などわずか400年ほどのことにすぎないのですが、近代人は、近代以前の数千年、数万年の歴史を経てきたものを否定し葬りさろうとするのです。理性はこの根絶やしを正当化するのです。
しかし、人間の心には、これを疑い、先祖から受け継がれてきたもののなかに、もっと奥深い価値を求める性向があります。その性向の政治的分野における表れが、保守主義であろうと、文明論的には考えられます。このような文明論的観点に立つとき、日本文明に生きているわれわれにとって、文明間の文化的要素の違いを超えて、西欧の保守主義には汲み取るべきものがあると思うのです。
前述しましたが、西欧の保守主義の根底には、フランス革命への対抗があります。その対抗の結果として、西欧には君主制を維持し、共和制をとっていない国々があります。イギリスをはじめ、スペイン、スウェーデン、ノルウェー、オランダ、ベルギーなどです。
わが国は古来、皇室を戴く国であり、固有の宗教としては神道、国民の構成としては大家族国家を保ち続けてきました。西欧には、これに匹敵するほどの歴史・伝統を持つ国はなく、この差異を踏まえた上で先の国々とわが国が共通しているのは、近代化の中でも君主制を維持していることです。
わが国の保守とは、皇統を保守すること、すなわち、「國體を護持」することです。
次回は、日本と西欧の保守について述べさせていただきます。