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乃木大将の長男勝典と次男保典
日露戦争後、ある母親が道端で嘆き、泣いておりました。
男がそばを通って理由を聞いてみると、旅順戦で一人息子を亡くしたという。
男は黙って涙をぬぐい、母親に言葉をかけて、歩いて行きました。
すると、この母親の知り合いが駆け寄ってきて、
「今のお方は乃木大将ではないですか」と言いました。
「あのお方が、乃木大将ですか・・・」
この母親は、ご子息を二人も戦場で亡くされたのに、そのことを触れずに慰めの言葉をかけて頂いた乃木大将のことを聞いて、一人息子を失って泣いている自分が申し訳なく思ったのです。
日露戦争後によく歌われた歌に「一人息子と泣いてはすまぬ、二人亡くした方もある」というのは乃木大将のことを歌ったものでありました。
乃木大将は日露戦争後、凱旋されて故国の土を踏み、東京では熱狂的な歓迎を受けましたが、明治天皇には「陛下の忠良なる将校士卒を多く旅順に失い申す」と自らの責任を詫び、むせび泣いたのです。だからこそ乃木大将は残された命を戦死した将兵の魂を慰め、遺族と傷病兵のために出来る限りの援助を捧げました。
その乃木大将を学習院長に任じたのは明治天皇でした。そして、皇孫であります後の昭和天皇の教育を託しました。
日露戦争後、日本は大国ロシアに勝ったことに浮かれ、贅沢に浮かれ慢心していました。乃木大将はそういう風潮を憂い、学習院の児童3000人を集めてこのように訓話しました。
「驕りに傾くのはお国の将来のために嘆かわしいことであります。どうか、皆さんは質素剛健の徳を積んで、どこまでもお国を滅ぼす最も恐ろしい敵である奢侈(しゃし贅沢)と戦う覚悟をもってもらいたいものです」
このように話された乃木大将自身は公私のけじめが極めてはっきりされておりました。陸軍大将の立場の時は一等のものを着て、一等食を食べられていましたが、しかし、日常は極めて質素で、食事も麦ごはんがごちそうなくらいで、電車に乗った時も立たれたままだったと言います。
乃木大将の「質素」と「勤勉」はまさに明治天皇の思いを呈したものでした。
乃木大将は学習院の先生の詰め所に『黴、華美、音が相近し』と張り紙されていました。華美に流れることは、心に「黴(カビ)」が生えることだということです。
乃木大将は生徒の持ち物が華美に流れることを戒めるために、まずもって教職員が質実剛健たるべしという教育方針とされました。
乃木大将のこの逸話から、日本人らしい生き方を感じることが出来ます。
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