2012-11-30
南京大虐殺はいったいどこで行われたのか
かつて日本は美しかった誇りある日本、美しい日本へ
いくら探しても南京大虐殺の実態は出てこない。いったいどこで虐殺はあったのか。
南京市は城内、城外の都市部と近郊六県が行政区となっています。南京戦当時、城内は外国人メンバーで組織された国際委員会が管理する安全区が作られ、一般市民はそこへ避難し、日本軍は攻撃を加えませんでした。南京陥落後、国際委員会は日本側へ日本兵の非行を425件あげて抗議しました。冨澤信繁(著)「南京事件の核心」は事件をデータベース化して集計していますが、安全区の記録(徐淑希 編集 ~2/10)では殺人は26件です。目撃者が判明しているのはわずか1件。しかもこれは「われわれは日本軍による合法的な死刑執行に対して何ら抗議する権利はない」と書いてあり、虐殺ではありません。
結論:安全区で大虐殺はなかった。
安全区の外ではどうでしょうか。国際委員会のメンバーであるベイツは「戦争とは何か」で次のように書いています。
「ここに記録された事件(安全区の記録)はただ南京安全区内で起きたものだけであり、南京のこれ以外の場所は一月末まで事実上、無人地帯となっていたのであって、この期間中、ほとんど外国人の目撃者がなかったということである」
第47連隊と入城した報知新聞の二村次郎カメラマン。
「中国人は誰もいませんでした」
第23連隊 坂本氏
「残敵を掃蕩するため、連隊主力は城壁に沿い、私の第二大隊はその東方の市街地を北方に向かって前進した。ちょうど12時頃、道路の左側に飲食店が店を開いており、主人らしい一人の男がいたので、支那ソバか何かを注文し・・・一々家屋を点検した訳ではないが、前記の飲食店の男以外には市民も敵兵も見ず、また大し
た銃声も聞かなかった」
まったくゼロではなかったようです。支那の負傷兵と看護婦に出くわしたり、大量の敗残兵に出くわし「安心しろ」と支那語で話しかけた日本兵もいます。しかし、万単位どころか千単位もいるように思えず、ここで大虐殺が繰り広げられたという話もありません。
結論:安全区の外で大虐殺はなかった。
城外はどうでしょうか。城外は15マイル(約24キロ)にわたって支那軍による焦土作戦が展開されました。日本軍が使用できないように建物を焼き払うのです。人が住めるような状況ではありませんでしたし、戦闘地帯です。国際委員会のラーベ委員長は1月17日の日記に安全区の住民が増えたとして「5万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ」と書いていますが、冬の廃墟には住めないし、廃墟に万単位の人がいたところなど誰も見ていないので、もっと遠くに避難していた人たちが戻ってきた話をしているものと思われます。住民だったものは城内に入ることが可能でした。城外もほぼ無人だったということです。
結論:城外で大虐殺はなかった。
いったい、南京大虐殺はどこで起こったのか?戦闘に巻き込まれた市民とかはいたでしょうし、敗残兵の銃殺などは合法であり、これらは虐殺ではありません。困った虐殺肯定派の中には「ラーベは5~6万と言っているが、彼の目の届かない郊外や、彼が去った後の犠牲者を足すと30万人ぐらいになるはず」(笠原十九司)などと場所と時間を拡大させているのです。すると中共の学者は「30万人は南京城内だけの数字である。地域や時期を勝手に広げてもらっては困る」と言われる始末です。
金陵女史文理学院ミニー・ヴォートリン日記 12月6日
「UP(AP)特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容に行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村人を一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ」
参考文献
小学館文庫「『南京事件』の総括」田中正明(著)
展転社「南京事件の核心」冨澤繁信(著)
河出書房新社「日中戦争資料<9>」洞富雄(編)
小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
偕行社「証言による南京戦史」
講談社文庫「南京の真実」ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
大月書店「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」岡田良之助・伊原陽子(訳) / 笠原十九司(解説)
日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
添付画像
陥落2日後の南京。大虐殺が行われているという日だが、市民は笑って子供を見ているような・・・