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南京事件の日々

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2012-11-24

南京事件の日々Add Star

 
ヴォートリンは南京をどう過ごしたのか。
 
f:id:jjtaro_maru:20121013111004j:image

 
 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で日本軍は南京市を占領しました。このとき、外国人による国際委員会が設置され、一般市民は安全区と言われる区域に保護されていました。ここで日本兵が蛮行を働いたとされ、国際委員会は日本の外交官補の福田篤泰氏に訴えでましたが、現場に行ってみると何もない、ということばかりでした。この訴えの中に金陵女子文理学院でおこった事件もあり、ここはアメリカ人のミニー・ヴォートリン女史が長となり、数千人の婦女子の難民の面倒を見ています。彼女の日記が「南京事件の日々」というタイトルで出版されています。
 
第二件「12月15日午後4時、日本兵は金陵女子文理学院校内付近で米を満載した馬車一両を強奪した」
 
このような訴えが日本大使館にきています。ヴォートリン日記にはどのように記されているでしょうか。
 
「いくつかの日本兵グループがやってきたが、何も問題を起こさなかったし、中に入れてくれと強要する者もいなかった」
 
校内で起こった日本兵に関することはこれだけです。
 
第九十四件「12月17日夜、日本軍人指導の捜索隊は金陵女子文理学院収容所の職員を脅迫して大門の入口に集め、(取り調べは)約一時間の長きにわたった。同軍人は捜索済みとなることを証明する書き付けをひき裂いた。同時に日本兵は収容所に乱入して婦女11名を拉致した」
 
便衣兵の摘出のことのようです。支那兵は平服に着替え、安全区に潜んでいました。ヴォートリン日記では次のように書かれています。
 
「夕食をとり終わったあとで中央棟の少年がやってきて、キャンパスに兵士が大勢いて、寄宿舎の方へ向かっていることを知らせてくれた。二人の兵士が中央棟のドアを引っ張り、ドアを開けるようしきりに要求しているところに出くわした。鍵を持っていないと、言うと、一人が『ここに中国兵がいる。敵兵だ』と言うので、わたしは『中国兵はいない』と言った。いっしょにいた李さんも同じ答えをした。その兵士はわたしの頬を平手で打ち、李さんの頬をしたたかに殴ってから、ドアを開けるよう強く要求した」
 
「学院の責任者はだれか、と言ったので、わたしが名乗り出ると、彼らはわたしに、中国人の身分について一人ずつ説明するよう求めた。運の悪いことに臨時の補助要員として最近新たに雇い入れた使用人が何人かいて、その中の一人が兵士のように見えた」
 
こうして取り調べをやっているときに、国際委員会のフィッチ、スマイス、ミルズが到着しています。
 
「それが彼らの策略であったことに気づいた。責任ある立場の人間を正門のところで拘束した上で、審問を装って兵士三、四人が中国兵刈りをしている間に、ほかの兵士が建物に侵入して女性を物色していたのだ。日本兵が12人の女性を選んで、通用門から連れ出したことをあとで知った」
 
人数が1人異なりますが同じ話と考えてよく、これが婦女11名の拉致事件になったようです。ヴォートリン女史の話では強制的に連行したのかどうかがわかりません。実際日本軍は使役として男性を拉致?したりしていました。給料を払うこともあったし、食べ物を与えるだけで、喜んで働くものもいました。女性の場合は洗濯等の雑用係です。娘を日本兵の宿舎に連れて行って、食糧と引替えに置いていく母親とか、ある部隊が支那人に雑役婦を頼んだら、安全区に探しに行って連れてきたというのもあります。おそらくはそうした使役の募集でしょう。これを反日的態度の国際委員会が確認もせずに「拉致事件」としたのです。
 
第八十一件「12月20日午前3時頃、3名の日本兵が金陵女史文理学院第五百号の家屋に侵入し、二人の婦女を強姦した。その時には日本領事館の警察官が一人、門の入口に駐在していた」
 
おそらく学院に警備兵をつけたとき話でしょう。21日のヴォートリン日記に記載があります。
 
「朝食のあと、例の二五人の警備兵が昨夜危害を及ぼした(女性二人が強姦された)件について事情を聴取した。しかし、こうしたことには慎重に、しかも臨機応変に対処する必要がある。そうしないと兵士の恨みを買うことになり、そのほうが当面している災難にもまして始末が悪いかもしれない」
 
ヴォートリンは「強姦」と書いていますが、微妙な言い回しをしています。「事情聴取して慎重に臨機応変に対応」と言っていますから、警備兵の言い分も聞いたのでしょう。お金を払った上での合意の上の行為だったことを匂わせています。実際、難民の中には売春婦が多くおり、ヴォートリンの目の前で慰安婦を募集すると、大勢の女性が進みでることがあり、ヴォートリンは言葉を失ってしまうということがありました(21日)。
 
 これらのように日本大使館に訴えられた事件は、検証もせずに悪意に満ちた訴えでした。福田外交補は国際委員会の事務所に行くと、支那人が訴えてくるのをフィッチ神父が確認もせずタイプしているのを見て、「ちょっと待ってくれ、君たちは検証もせずにそれをタイプするのか」と問いただし、彼らを現場に連れて行くと何もない、住んでいるものも居ないということがあったと述べています。



 
参考文献
 
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
 
 偕行社編「証言による南京戦史」
 
 大月書店「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」岡田良之助・伊原陽子(訳) / 笠原十九司(解説)
 
 講談社文庫「南京の真実」ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
 
 評伝社「外国人の見た日本軍の暴行」ティンバーリ(原著) / 訳者不詳
 
 河出書房新社「日中戦争資料<9>」洞富雄(編)
 
 展転社「南京事件の核心」冨澤繁信(著)
 
添付画像
 
 安全区ではバラックを建てて避難民は住んでいた。陥落2日後の写真で大虐殺があったとされる日。恐怖の日のはずだが、なんのこっちゃ。
 
 水間政憲(著)「ひと目でわかる 日韓・日中歴史の真実」より 佐藤振寿カメラマンが撮影
 
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