「明治天皇六大巡幸展」をご覧あそばされる天皇、皇后両陛下 御尊影=10日午後、東京都渋谷区の明治神宮文化館
「明治天皇六大巡幸展」をご覧あそばされる天皇、皇后両陛下 御尊影=10日午後、東京都渋谷区の明治神宮文化館
君が代
謹んでお伝えいたします。
畏くも天皇、皇后両陛下におかせられましては10日、明治神宮文化館(東京都渋谷区)を訪れ、明治天皇百年祭を記念して行われている「第1回『明治天皇六大巡幸』展」(霞会館、明治神宮主催)をご覧あそばされた。
今回は1872年(明治5年)から78年(同11年)に行われた3回の地方視察の様子を絵画やゆかりの品々を通して紹介されているもので、畏くも天皇陛下は、九州・西国を回った1回目の巡幸について「この時はすべて海路だったの?」などと確認あそばされた。
日本各地にある明治天皇 巡幸記念碑
畏くも天皇、皇后両陛下におかせられましては10日、明治神宮文化館(東京都渋谷区)を訪れ、明治天皇百年祭を記念して行われている「第1回『明治天皇六大巡幸』展」(霞会館、明治神宮主催)をご覧あそばされた。
今回は1872年(明治5年)から78年(同11年)に行われた3回の地方視察の様子を絵画やゆかりの品々を通して紹介されているもので、畏くも天皇陛下は、九州・西国を回った1回目の巡幸について「この時はすべて海路だったの?」などと確認あそばされた。
明治天皇陛下 御真影
明治天皇巡幸年次別回数
日本各地にある明治天皇 巡幸記念碑
明治天皇の地方巡幸のすべて97件(うち、即日還幸37件)になります。このうち、六大巡幸といわれるものは、(明治5年)5月23日~7月12日、近畿・中国・九州地方、(明治九年)6月2日~7月21日、東北地方(函館(はこだて)を含む)、(明治11年)8月30日~11月9日、北陸・東海道地方、(4)(明13年)6月16日~7月23日、中央道地方、(明治14年)7月30日~10月11日、東北・北海道地方、(明治18年)7月26日~8月12日、山陽道地方である。この六大巡幸が明治初年から10年代に集中し、期間が1か月半ないし2か月以上に達しています。
明治天皇の御生涯は、近代日本の形成期と重なる。ペリーの黒船が来航した年、明治天皇は1歳であられました。当時、白人諸国は、競って東洋に植民地を求めて進出し、一歩誤れば、わが国はたちまち欧米列強に征服支配されるおそれがありました。しかし、260年にわたる徳川幕藩体制は、もはや対外的な対応力を失い、国中が開国か鎖国か、国論を二分し、朝廷か幕府かで激動していました。こうした情勢の中で、尊皇攘夷の中心となっていた父・孝明天皇が崩御し、明治天皇は僅か16歳で、皇位を継ぐことになったのです。慶応3年1月のことでした。
明治維新を経て、西欧列国と対等の国家としての歩みを進めるなかで、明治天皇は常に政治や文化の中枢にあって、近代日本の国造りをみごとに成し遂げられた。その御聖徳は称へても称へ過ぎるといふことはありません。
明治元年3月、天皇は、五箇条の御誓文をもって、施政の大方針を示しました。
その後のわが国の発展はめざましく、翌2年版籍奉還、4年廃藩置県、5年学制頒布、鉄道の開通、太陽暦の採用などが進められました。明治22年、明治天皇は大日本帝国憲法を発布、翌23年には帝国議会を開設し、また行き過ぎた欧化政策のため国情が混乱すると、国民道徳の基本となる「教育勅語」を下賜あそばされ、明治天皇御自身も率先垂範されたのです。
明治天皇は6度にわたって地方御巡幸をなされました。まだ交通手段が発達していない時代ですから、馬車や船による旅行は、身体的に大きな負担だったことは容易に推察できます。しかし、明治天皇は自分の目で国内各地の様子を見、また国民に接し、直接世情を知りたいという強い希望をもっておられたのです。御巡幸の旅は、2ヶ月の長期に及ぶこともありました。今日も各地に明治天皇が巡幸されたという記念碑が建てられています。
ちよろづの神のみたまはとこしへにわが国民を守りますらむ
こうしてわが国は、明治天皇の下、僅か半世紀の間に、アジアで初めての近代化に成功し、文明開化、富国強兵、殖産興業、教育の普及、文化の向上など、欧米に伍した近代国家として躍進していったのです。
しかし、幕末に諸外国と締結した不平等条約は依然として残り、日清戦争の勝利後の明治三十二年になりようやく治外法権が撤廃された。さらに関税自主権を完全に恢復するのには、日露戦争に辛勝し、さらに数年を経た明治四十四年を待たねばなりませんでした。
まさにその翌年、明治天皇は六十一歳で崩御されたのである。その御代は、ひたすらに「公」のために尽くし、「私」を省みない明治天皇のご生涯でした。肇国以来、2672年を越える皇室の歴史の中でも、他に例のない大転換の時代であり、四十五年間に及ぶ御治世は心労の多い日々であったと拝察されます。ただ、明治の元勲を含め、臥薪嘗胆、君民一体の国民意識が、新たな国民国家を形成するに大きな力となった時代でもありました。だからこそ、明治天皇の崩御は国民にとって、譬へやうのない悲しみであったのです。
まさにその翌年、明治天皇は六十一歳で崩御されたのである。その御代は、ひたすらに「公」のために尽くし、「私」を省みない明治天皇のご生涯でした。肇国以来、2672年を越える皇室の歴史の中でも、他に例のない大転換の時代であり、四十五年間に及ぶ御治世は心労の多い日々であったと拝察されます。ただ、明治の元勲を含め、臥薪嘗胆、君民一体の国民意識が、新たな国民国家を形成するに大きな力となった時代でもありました。だからこそ、明治天皇の崩御は国民にとって、譬へやうのない悲しみであったのです。
明治時代の最大の危機は、日清・日露戦争でした。これらは、新興日本の国運を賭けた戦いでした。明治天皇は、その間、常に国民の先頭に立ち、国利民福のためひたすら尽力されました。そして出征兵士と苦労を共にするという考えから、炎暑の最中でも冬の軍服を着用され、冬には暖もとられなかったと言われています。
明治天皇は、御生涯で九万三千三十二首の大御歌を残された。和歌史上にも例のないことで、御歴代でも断然突出しています。
明治天皇は、敷島の道を尊ぶ皇室の伝統を実践され、四季や花鳥風月を数々の大御歌に詠まれた。これらのなかには、折々の感慨がこめられています。
あしはらの 国とまさむと 思ふにも
青人草ぞ たからなりける
(大意:日本の国を富ませたいと思うにつけても、第一に貴い宝は
わが国民である)
照につけ くもるにつけて おもふかな
わが民草の うえはいかにと
(大意:照れにつけ、曇るにつけて思うのは、わが国民の生活は
どうであろうかということである)
あさなあさなみおやの神にいのるかなわが国民を守りたまへと
ちよろづの神のみたまはとこしへにわが国民を守りますらむ
上記二首の大御歌のように、国民の平安を祈念された大御心は不変で、それは御歴代とも重なる。常に国民の平安を祈られつつ、西欧諸国と対等の国家建設に励まれた明治天皇。その大御心に象徴される明治の精神に学ぶことは、今の時代に最も必要なことである。戦後、こうした気風は失はれてしまい、その大切さに気付いている人はごく僅かかも知れません。今こそ虚心に明治天皇の御事跡と大御歌に学び、明治天皇と共に歩んだ明治人の精神に立返りたいものです。
日本人は日本人らしく・・・日本人は皇室と共に・・・
日本人は日本人らしく・・・日本人は皇室と共に・・・
常に国民を思われた明治天皇陛下を敬う国民の心もまた、熱いものがありました。ご不例が発表されると、多くの人が二重橋前までやってきて、ご平癒をお祈りしたのでした。
あさみどり すみわたりたる 大空の ひろきをおのが 心ともがな (大意:浅緑色に澄みわたった大空のように、広々とした心を自分の心 としたいものだ) 神職が舞う「明治神宮大和舞」 曇なき日本人の「こころ」です。 |